同性愛についての資料と牧会上の指針

2.はじめに

(1) 大前提として

 本文書は同性愛についての基本的知識や資料、および聖書を基準とした倫理的判断材料を提供し、同性愛者に対しての牧会的な指針を示すことを目的としています。この問題については教会、およびクリスチャン個人の間に幾つかの大きな誤解があります。その内で最も本質的な誤解は、教会内(特に新生したクリスチャン)には、同性愛者はいないという内容のものです。これは、明らかな誤解であって人間の性的指向や性行動に対する理解不足に由来するものです。
 あるアメリカ人宣教師は、日本で「先生の牧する教会では同性愛の問題はありませんか」と尋ねると、必ず「そのような問題はありません」という答が返ってくるのに驚いています。「存在しない」のでなく「認識されていない」だけだという現実をこの宣教師はご存知なのです。

 同性愛の原因には諸説がありますが、どのような原因によるものであれ、「クリスチャンであれば、その者は同性愛者ではありえない」という公式はおよそ成り立ちません。もし、同性愛の原因が先天的なものであるならクリスチャンであるなしに関係なく、同様の確率で同性愛的な指向を持つ人間がこの世に生を受けるはずです。
 また、その原因が後天的なものであるとしても同様でしょう。特定の家庭環境や幼少期の性体験を通過するなら、その者はクリスチャンであっても同性愛的傾向を有するようになると考えられます。そのように(同性と異性のどちらを性愛の対象とするかという)人間の性的指向は本人の意志に関係なく形成されるものです。したがって、明確に新生を体験したクリスチャンであり、同時に同性を性愛の対象とすることは当然起こり得るのです。

(2) ここでの「同性愛者」の定義

私がここで「同性愛者」という言葉を用いるとき、それは次のような二つの意味を持っています。第一に同性愛的傾向を強く自覚的に有している人、言い換えるなら性的指向において同性に強く傾く人のことです。ですから、同性愛行為をしている者とは限りません。多くのクリスチャンの同性愛者は同性に対する情欲を自覚していますが、同性を対象とした性行為には及びません。むしろ、そのような誘惑や情欲と戦いつつ歩んでおられる人々です。
また、私がここで「同性愛者」という言葉を用いるとき、それは第二にとして同性を対象とした性行為を持つ者を意味します。当然、特定のパートナーを持つ場合もあります。言い換えますなら、同性愛者としてのライフスタイルを有している人々です。
 ここで「行為と思い」について少しだけ触れておきます。イエス様はマタイ5章27~30節において行為としての姦淫と思いの世界における姦淫の安易な区別を撤廃されました。つまり、「行為に及ぶなら罪であるが、思いの世界にとどまるなら、それは罪ではない」という態度は神様の前に正しくないのです。確かに実際の同性愛行為に及ばなくとも、思いの世界での同性愛の実行は問題視されるべきでしょう。たとえ、実際の同性愛行為に至らなくても、思いの世界においても誘惑と戦おうせず、実行の世界を歩みつづけているような場合は第二のケースにあたると考えるべきでしょう。
 後述しますが、私は前者と後者とは一定の差異があると考えます。特に倫理的な判断に関しては、同性愛の指向者と実行者とは一線を引いて考察すべきだという主張は、この文書を一貫して流れるものです。しかし、私が単に「同性愛者」と記した場合は、両者とも含んでいるとご理解ください。意図的に区別する場合は「同性愛傾向者」「同性愛実行者」などの表現を用います。

(3)同性愛者クリスチャンの現状

 現代は多様化の時代と言われます。性のあり方も例外ではありません。従来、性は様々な社会的秩序や生物学的制限の中にありました。特にキリスト教な倫理を伝統的な倫理観として持つ社会においてはそうであったでしょう。性は結婚制度という社会的秩序によって保護され、生殖という目的を伴うものでした。動機としては、人格的な愛に基づくものであり、関係性については異性間のものとされてきました。そのように性は、結婚、生殖、愛、異性間という四つの要素と密接に結びついてきました。
 ところが世俗化の流れの中、性はこれら四つの要素を遊離しつつあります。その結果として現代人の性のあり方は多様化の一途をたどっています。今や世俗された性は、神が人類に与えた恵みではなく、人間の側が主体となり、多様なあり方から選択し楽しむものとなっているかのようです。

 そのような流れの一つに同性愛に対する社会的認知の問題があります。欧米社会では、すでに、幾つかの国家や州で同性間の結婚が法的に認められつつあります。欧米のキリスト教会にとって同性愛問題はかなり身近で深刻な問題となっています。
 そのことは日本も決して例外ではありません。1998年、同性愛者であることを公にしている男性が、日本基督教団の教師の資格取得試験を受験希望し、同教団内及び日本のキリスト教会内に大きな波紋を投げかけました。今後、日本の教会でも、同性愛の問題はいよいよ避け得ないものとなることが予想されます。そればかりか、これまでも日本の教会内にも同性愛問題は潜在的な形で存在してきたはずです。

 同性愛者を生み出す原因が何であれ、教会内でも少なくとも1パーセント、多ければ数パーセントは同性愛者であると予想されます。しかし、そのような流れの中にあっても、多くの(広義での)福音派の教会にとっては、同性愛の問題は未だに他人事のようです。 
 福音派教会に属する教職者や信徒の中には「日本の福音派の教会に同性愛者が存在するはずがない」と堅く信じておられる方も少なくないようです。
 アメリカ社会における同性愛者と日本社会における同性愛者の社会的立場は全く異なります。日本社会に生きる同性愛者は徹底的な弱者です。アメリカ社会のように一定の社会的認知や人権の保障を受けていません。それどころか存在さえ認められていません。
 存在を知られようなら、差別と軽蔑の対象でしかありえません。そして、そのような差別や偏見に対して抗議する事どころか、自分たちの存在さえ社会に対して示す事も困難なのが現状です。特に教会の中で同性愛は最も汚れた罪のように受け取られています。
このような教会の一般的傾向は純粋に聖書に由来するとは言いがたいものです。むしろ、キリスト教文化の伝統に由来するものであり、聖書的にはバランスを欠いた態度であると私は理解しています。
 また、教会外の同性愛者の世界でも「同性愛罪悪視の元凶はキリスト教」「教会は同性愛者を受け入れない」という前提があるようです。そこで当然クリスチャン同性愛者はいわゆる「カミングアウト」をすることができません。「カミングアウト」とは、同性愛者が自分自身の性的指向を他者に明らかにすることです。

(4)私の個人的体験から

 私自身、30名ほどの同性愛者クリスチャンに直接的に、あるいは間接的に出会ってきました。その方々の証言から推察するに、同性愛者クリスチャンは牧師などの霊的指導者に対して自らの性的指向を話すことができないでいるようです。せいぜい、信頼できる兄弟姉妹に打ち明けているのが現状のようです。牧師に受容されず、場合によっては軽蔑され責められる可能性を考えるのでしょう。また、結果的に教会の交わりから疎外される心配などがあるのでしょう。
 もし、この文書を牧師の方々が読まれるなら、どうか認識を新たにしていただきたいと願います。会衆の中には、イエス・キリストによって明確な新生を受けており、同時に自らの性的指向に苦しんでいる兄弟姉妹が存在する可能性があるということを。そして、多くの場合、最も信頼できるはずの牧師や兄弟姉妹にさえ話すことができずに一人深い苦悩の日々を送っているということを。自らの性的指向のために、自分の救いを疑い、神様の全能を信じきれず、主にある交わりの中にあっても徹底的な孤独を味わっている兄弟姉妹がおられるかも知れないのです。
 また、牧師の方やクリスチャンの方で、何らかの方法で、ある方がクリスチャン同性愛者であることを知ったとすれば、それは大変感謝なことだと考えるべきでしょう。潜在的であった問題が顕在化するのは、問題解決においては前進の第一歩だからです。他人事であったことが我が事になることは隣人愛を実践するスタート地点だからです。クリスチャン同性愛者にとっては、同じクリスチャンが一人でも自分の苦しみを理解し自分を受け入れてくれていることだけでも、それは大きな慰め、希望、力となるのです。

(5)著者の立場

 私はこの文書をいわゆる「聖書信仰」の立場に立って記したつもりです。私は基本的に同性愛者の人権が擁護され、教会が同性愛者を受容するように願います。これは、どちらかと言えば保守的な聖書解釈から導き出された私なりの結論です。私はそれが聖書的であると考えますし、従来、教会がとってきた誤った態度はその点にあるように思います。人権保護や受容と言う結論だけを見て、どうか、私が同性愛を容認していると誤解されませんように願います。また、その結論がフェミニズム神学や自由主義的な聖書解釈、あるいは状況倫理のような倫理学的立場に由来するものでないことはお断りしておきます。
 また、私は同性愛者の人権を擁護する一方で、同性愛行為(傾向でない)については、原則的に罪であるという判断をしています。また、同性愛者間のパートナーシップや結婚を認めません。それがいかに純粋な人格的な愛に根ざしていようともです。つまり、私は、同性愛者の人権を認めつつ、同性愛を多様な性のあり方の一つとして認めないという一見矛盾した立場を取っています。罪人を愛し受け入れる一方、その罪を憎み、そこからの解放を願う姿勢こそ、聖書的であると考えるからです。また、人権というものは、その内容が、人間を創造された神の視点から、正当なものだけが認められるべきだと私は考えます。したがって、同性愛者の人間として人権は擁護されるべきであり、一方、同性愛行為、あるいは同姓婚をする権利は退けられるべきだと判断しています。
 保守的な聖書解釈に立たない方々からは多分、この点で批判されることと思います。また、聖書的には判断不可能な部分を残している点でも、読者の中からは不満の声があることを予想しています。しかし、現時点では、そのような矛盾した立場こそ、聖書的であり判断不可能な部分を残す事こそが誠実な聖書解釈であると信じております。以上のような著者の立場をご理解の上でご一読いただければ感謝です。

(6)本書の構成

 この文書は前半が同性愛についての基本知識編と資料編、後半が聖書教理編と牧会編となっております。基本知識と資料編では聖書以外の様々な学問的な研究成果から、同性愛者の理解に役立つデータを提供できればと願っております。この中で同性愛者に対する様々な偏見が解消されれば感謝です。相手を正しく理解する事こそ愛の実践における第一歩であると信じます。
 後半では、まず、聖書教理編において聖書における同性愛に関する記述を取上げ、それを解釈し、私なりに一定の倫理的判断を示します。その後、牧会編では、現実に同性愛者本人やその牧会者、兄弟姉妹がこの問題にどう対処すべきか、その原則を記しました。
 手探りの中、始めたこの拙い奉仕が、同性愛に苦しむクリスチャン、また、そのような方と苦しみをともにし祈り労してしておられる牧会者、兄弟姉妹のお役にたてばと願いつつ。