信仰継承、宗教二世問題

信仰継承、宗教二世問題

「信仰継承に活かす『宗教2世問題』③~ありがちな二極化」

〈基本の確認〉
 昨今の「宗教2世問題」を受けて、信仰継承に迷いや葛藤を覚えておられる方も少なくないでしょう。しかし、問題の所在は、その「手段」です。手段の是非が、健全な信仰継承と宗教2世を生み出すことを分けるのです。
 まずは、「神様から託された子どもを、神様を礼拝する者への導くのは親としての使命」という基本理念は、確認したいです。賛同していただけるなら、その上で、子どもを愛し、人格の尊重と信仰継承を一つものとして果たしたいものです。そこで、今回からは、「何をしないで何をするか?」「何をやめて何を始めるか?」と記してゆきます。
〈支配でなく分離〉
 信仰継承について、大切なことは、「子どもが親に従うこと」と共に「子どもが親を離れること」。前者ばかりが強調され、後者が軽視されたことも、宗教2世問題の一因でしょう。
 創世記2章24節は「それゆえ、男はその父と母を離れ」と記しています。子どもは親を離れ、自立する存在。だとしたら、信仰継承とは、「親が子どもを離れさせ、神様や教会の交わりに結び付けること」でしょう。
 間違っても、「親が子を自分に結び付け、クリスチャンにする」のではありません。「支配による信仰継承」ではないのです。特に、子どもが親離れを開始する思春期以降は、支配による信仰継承は、子どもを二極化させると感じています。
〈二極化の内容〉
 その二極化とは、一例をあげれば「自立不足のクリスチャン」と「自立したノンクリスチャン」という二極化です。自分の意志というより、親の意向に沿って信仰告白をして教会生活を送るのですが、親から心理的分離が十分できていないので、成人後も自立不足、人格的未熟、社会不適応などの課題を抱えてしまいます。
 逆に、親の支配に歪められないように、自分を守ろうとして、親から離れようとするなら、神様と信仰からも離れざるをえません。「親との結びつき=神との結びつき」「親離れ=神離れ」という親子関係だからです。皮肉にもクリスチャン家庭の子どもが、健全で自立した未信者になるわけです。
 「神様から託された子どもを、自立させ、神様にお返しし、社会に送り出す」のが、聖書的子育てだと私は考えています。信仰継承という目的のためであっても、親は子どもを自分の所有物のように支配し、自分の願い通りに歩ませようとしてはならないでしょう。子どもという存在は「親の所有物」ではなく「神様から委託」だからです。子どもが歩むべき道は、「親の願い通り」でなく「神様の願われる道」だからです。
 この点を誤ることが、正統的なキリスト教会において、宗教2世問題、あるいはその類似問題につながるのだと私は思っています。
〈凧と鳩のたとえ〉
 とは言え、親の肉性は、「子どもの幸せより自分の安心を最優先してしまうこと」。自分が安心したい思いが、子どもの支配へと親を向かわせます。親の考えるレールの上を歩ませ、そこから外れないようにコントロールできれば親は安心です。子どもを信頼し、手放し、子どもの選ぶ道を歩ませていくのは、とても心配なもの。
 そこで、紹介したいのが「凧と鳩のたとえ」。ある方が、私にこんな言葉で教えてくれました。「親が、子どもを凧のように糸をつけて、コントロールすれば、やがて、糸は切れて、どこかに行ってしまうでしょう。しかし、もし、親が伝書バトのように、子どもを手放し、飛び立たせるなら、その子は親の元に戻ってくるでしょう」
 これを信仰継承に当てはめるなら、「支配による信仰継承」は子どもを「糸の切れた凧」にしかねず、「分離による信仰継承」は子どもを伝書バトにするのでしょう。ですから、親の保護下にある児童期までに、土鳩を伝書バトに育てましょう。人間が本来立ち帰るべきところを、子どものなかに受け付けたいもの。
 その上で、子どもが親を離れる思春期以降は、子どもを信頼し、神様に結び付くことを願って手放しましょう。口出し、手出しは必要最小限に留めて、いかに健やかに離れさせ、神様に結び付くよう導けるかが勝負でしょう。
〈親はどちらかの自己検証を〉
「分離による信仰継承」を実行すれば、思春期には教会生活を離れることもあるでしょう。それはとても親としては心配ですし、不本意でしょう。しかし、そこには、戻ってくる希望があります。一方、糸の切れた凧には、その希望はありえません。実際に、「支配による信仰継承」の結果、教会生活を離れた子どもが戻ることは稀ではないでしょうか。
 「凧タイプの信仰継承」「鳩タイプの信仰継承」、そのどちらをしてきたか?そのどちらをしているか?その検証はきっと、宗教2世問題を防ぐにとどまらず、健全な信仰継承の実践へとつながっていくことでしょう。