タブー視せず向き合う課題

タブー視せず向き合う課題

「夢と幻、美しく曖昧で時に無責任②~その正体は?」

 クリスチャンから、「自分の夢」や「自分に与えられているヴィジョン」をお聞きすることはたびたび。多くの場合、「なるほど」「ああ、そうなのですね」「素晴らしい」などと思うのですが、時に心配になること、疑ってしまうことも。
 そうした場合における「夢」や「ヴィジョン」の正体は何だろう?「夢」とはどのような言葉だとろう?と考えてみました。
① 「強く根深い劣等感」を一発逆転させ、仮想優越感に浸るための言葉。「夢」を語れば、思いは、自分が劣っている事実から、実現されていない夢へ。場合によっては、「夢を持つ自分」が「夢を持たない相手」に対してマウントを取ることも可能に。
 
② 「負け組」と評価されることを防ぎ、周囲に「夢を実現するために、多くを犠牲にしているスゴい人」という評価を得て、自己防衛するための言葉。自分と他者を比較してばかりの人物が、不利な状況にある時に、自らを「夢追い人」「ヴィジョンに生きる人」と示すと、傷つかず、自尊心も保つことができる。
 
③ 「幼児退行的」となり、自身を「万能感」に浸らせ、自己客観視を放棄させ、夢を達成した自分を思い描き、「幼児期のような安心感」を得させる言葉。大人になっても幼児性を強く温存し、不安が強い方は、夢をそのように利用することがあるのでは?
 
④ 「満たされぬ承認欲求を充足」させるための言葉。実質的には、親や周囲に認められるような行動をとること、そのような実績を得ることを意味する言葉。これは、大人になるまで、親や周囲から認められる経験が乏しく、成人後も欲求不満を抱えている方にあるように思います。
 
⑤ 「親や周囲や教会の意向に沿う行動、判断、進路」を示す言葉。自分が抱く夢でも、神様からのヴィジョンでもなく、正体は、他者の意向に沿うことであり、目的は、それによって安心を得ること。自我が確立しておらず、他者志向的な方に見られます。典型例は、召しがないのに、親や周囲の意向に沿うためにする直接献身。
 
⑥ 社会参加や結婚など、将来において、「予想される苦痛と重大な責任の回避」を、正当化、合理化する言葉。「夢がある」「ヴィジョン実現のために」と言えば、世間からは、否定的に評価される逃避的な歩みも、許容してもらえるわけです。
 
⑦ 以前にも記した通り、閉塞感と無力感と疎外感を与える現代日本社会の現実から目を逸らすための「口実」に利用されている言葉。夢を見るだけなら、一時的なリフレッシュですが、本気になると、恒常的な現実逃避となりかねません。現実と折り合いをつける、現実を受け止め適応しようと試みるなど、ある意味、大人の歩みを失います。
〈夢と幻の悪用乱用〉
 というわけで、以上が私なりに考えた七つの類型。神様がいらっしゃらなければ、救いようもないほど罪深く、愚かな私たちは、厳しい状況に陥ると、「夢」や「幻」という言葉を、自己目的で悪用や乱用をしかねません。
 クリスチャンの場合は、その夢と幻を信仰や神様で「権威付け」して、無意識に悪用・乱用をすることも。神様からのものだと言い張って、周囲を黙らせ自己防衛することもあれば、そう自分に思い込ませることで安心を得たり、自尊心を守ったりするものです。
 そうなると周囲は、心配や疑惑を覚えても、なかなか愛の忠告や指摘ができません。本当のことを言ってしまうと、その人自身が崩壊しかねないからです。間違った土台の上に築き上げられてきた信仰が崩れる可能性があるからです。これまで積み上げてきた相手との関係が一気に壊れてしまいかねないからです。その結果、こうしたタイプのクリスチャンは、愛され、祈られることはあっても、戒められ、教えられ、成長することは、あまりないようです。
〈勇気をもって自己検証を〉
 こうした「自称・神様からの夢」や「自己申告制の主にあるヴィジョン」については、やはり、神様の前に静まり、その「正体」を自己検証していただけたらと願うのです。勇気をもって、向き合って欲しいと思います。
 上に記した7つのような夢や幻を神様からのものと言い張り、抱き続け、実現を目指し続けるなら、結果は予想できます。それは、夢と幻の実現もなく、自分本来の実り豊かな歩みも失って人生でしょう。いわゆる「信仰こじらせ系クリスチャン」としての歩みを強いられかねません。その意味で、「こじらせ系」との自覚を持つ夢追いクリスチャンは、ぜひとも、自己検証を。
「自称」や「自己申告」の主からの夢や幻については、早めに捨てるか、破綻させて、出直すことをお勧めします。
 
 なぜなら、偽物を捨ててこそ、その手で本物をつかめるからです。
 神様は本物を与えようと願いつつ、偽物を手放すことを待っておられるからです。
 
 捨て去った後に、夢の破綻の向こう側にこそ、本物の主にある夢を見て、聖書の示す幻に生きる、主にある自分らしい、実り豊かな歩みのスタートあると思うのです。