説教と説教者

ひとり説教塾④~説教の終わり方

 このシリーズも今回で終わり。新年最初ということで、説教の結論部分も短くした。心がけたことは、以前、Ministry誌に掲載されたトーマス・G・ロング師の説教に学んだこと。「テキストが語り掛けること」ではなく、「テキストがしようとしていること」をするのが、説教という説教観。特にそれが反映されるのが、説教の終わり方。ロング師の説教には、自らの終わり方がいかに、安易で、予定調和で、勝利の方程式で、模範的信徒育成志向なのかを突き付けられ、猛省されられた。
 
 そこで、今回は、猛省を活かした次第。神様の願いは主にのみ仕えるとの契約更新、しかし、語り掛けは二者択一の迫り。テキストが語っていることは、「主にのみ仕えましょう」でも、テキストがしていることは、「どちらに仕えるか」の迫りだろうと判断。ならば、終わり方が、「主にのみ仕えましょう」ではどうなのか?と思案。そこで、聴衆に対して、3000年以上の時を超えて、その決断の迫りを再現して終わることに。
 
〈メッセージ〉
 この朝は、「新しき年に~愛と自由と責任に生きる」と題して、ヨシュア24章が記すヨシュアの告別説教を今日の私たちへの語り掛けとしてお取次ぎしました。私たちは、今、礼拝の中、「過去からの愛」を確認しました。「今与えられている自由」を受け止めました。そして、新たな年について「未来への責任」を問われています。
 神様はこの朝、「御子の血による契約の更新」を願いながら、こう語り掛けておられます。「今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実をもって、主に仕えなさい。もし、主に仕えることが不満なら、あなたが今住んでいる地の『富や自己欲求という神々』でも、仕えようと思うものを、今日選ぶがよい」。
 新年最初の礼拝の中、お互いは、「今日選ぶがよい」との神様の愛の決断の迫りにどう応えるでしょう。お祈りします。
 
〈自己評価〉
 説教者が、信仰を会衆にぶつけるような説教は、受け止め・応答可能な会衆には、有効だろう。他方、「主にのみ仕えない信仰スタイルに決めている」会衆にとっては、説教者と会衆に無用な対立関係を生じかねない。癒しと慰めのみを説教に求める会衆には不評であろう。
 多くの場合、説教者は牧会者でもあるので、正しい説教が牧会に及ぼす悪影響も考慮すべきかもしれない。逆に、それを考慮しすぎるなら、説教は本来性を失うとの説教観もあるだろう。私は後者なので、実行した次第。説教者が牧会者でもある場合の葛藤と困難さを思うばかり。