説教と説教者
説教と説教者
- 「おらぁ、ぶったまげただよ~トーマス・ロングの説教がヤバいぞ」
- 「標準的説教観って、最近の普及品だったの?」
- ひとり説教塾①~新年礼拝説教、導入部の自己評価
- ひとり説教塾②~神様についての想像の許容範囲
- ひとり説教塾③~預言者的説教の功罪
- ひとり説教塾④~説教の終わり方
- 「説教者は黒子、会衆がパフォーマー ~キェルケゴールの言葉から」
- 「礼拝説教中が眠い!①ショートコント」
- 「礼拝説教中が眠い!②思いつく原因を列挙」
- 「礼拝説教中が眠い!③デート中の会話に例えて」
- 「礼拝説教中が眠い!④説教中の双方向性」
- 「礼拝説教中が眠い!⑤~ユテコ、礼拝転落事件を語る」
- 「おはようを言わない牧師たち①」
- 「おはようを言わない牧師たち②」
- 「おはようを言わない牧師たち③」
- 「説教冒頭の『おはよう』はパースペクティヴらしいぞ」
ひとり説教塾③~預言者的説教の功罪
さらなる続き。ヨシュアが、他の神々に仕える「選択の自由」を与えていることについての考察。その中で、現代クリスチャンにとっての「他の神々に仕える可能性」を示唆。
〈メッセージ〉
新たな年を前に、私たちは、主にのみ仕えるのでしょうか?それとも他の神々に仕えるのでしょうか?そう聞いて、クリスチャンが偶像に仕えることなど、あり得ない、選択の余地はないと思われるかもしれません。しかし、そうでしょうか?確かに、仏壇に手を合わせ、神棚を拝むことはないでしょう。しかし、クリスチャンが目に見える偶像以外の他国の神々に仕えることは決して珍しいことはありません。代表的なものを二つだけあげましょう・・・(中略)
もう一つは自己欲求です。コロサイ人への手紙の3章5節は言います。「そして、貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝です」と。貪欲とは言い換えるなら、「欲望の無限肯定」です。歌で言うなら「あれも欲しい、これも欲しい、それも欲しい、もっともとっと欲しい」ということです。求めながら、獲得しても、なお、満たされることがないのです。
一方、神様に仕える時、まず、今与えられている恵みに気が付き、感謝します。既に与えられているもので心満たされ、極端なないものねだりはしません。新しく欲しいものも、したいこともあるでしょうが、貪りループに陥り、満たされない心を抱き続けることはありません。
現代人は、極端な産業社会、消費社会に生きています。お金、富が、人に幸福をもたらすよう錯覚をさせます。また、この産業社会、消費社会は、物欲、自己承認欲求、自己実現欲求など人間の欲望を前提して、維持され、発展していく社会でもあります。
自分らしく自分を活かしたいと願う「自己実現欲求」、誰かに認められたいという「自己承認欲求」、自分の価値を確認したいと願う「自己価値確認欲求」、それらは、人間の誰もが持つ健全な欲求でしょう。しかし、神様でなく、それらに仕えるなら、貪りループに陥り、どこまでも満たされぬ歩みとなっていくでしょう。とりわけ、それらの自己欲求に仕え、その実現のために、信仰を名目とし、神様を僕として利用するなら、それこそが、現代クリスチャンにとっての「典型的偶像礼拝」でしょう。
ですから現代日本社会に生きるクリスチャンにとってヨシュアが迫った「主なる神かほかの神々か」という問いかけは、「自己欲求に仕え、自らを満たすのか、それとも、本当の意味で私たちを満たしてくださる主に仕えて生きるのか」、そのことを私たちに問うていると言えるでしょう。
〈自己評価〉
この手の預言者的メッセージはもろ刃の剣。身に覚えがある会衆が、気づきや悔い改めに導かれたら大成功。該当者が「自分への当てつけ」と誤解し、逆恨みをされるリスク、また、自罰傾向の強い聞き手を意気消沈させる可能性も考慮すべき。説教の現場では、最低限のフォローや牧会的配慮は必要だろう。