説教と説教者

ひとり説教塾②~神様についての想像の許容範囲

 昨日の投稿の続き。ヨシュア記24章において、契約更新の前提となるのは、1-13節が記す「過去からの愛の確認」。そこで、次のように語った。
 
〈1~13節からの語り掛け〉
 そのように13節まで、神様が何代にもわたり、民を愛し、守り、導き続けてきた事実を記しています。それは、今日の私たちへの語り掛けでもあります。
 アブラハムを選び出したように、神様は私たち、あるいは親や先祖を召し出してくださいました。出エジプトのように罪の奴隷で滅びるはずの私たちを、イエス様の血潮によって、解放をしてくださいました。救われた後の旅路には、試練や戦いがありましたが、神様は守ってくださり、自力ではできないような勝利を経験させてくれました。
 そして、今、自分の努力では得られない平安、喜び、希望などのブドウ畑、オリーブ畑の恵みにあずかっています。そうです。1節から13節までが描く「過去からの愛」は、今日の神の民が受けているものに他なりません。
 
 私はこの1節から13節を読みますと、「神様どんだけ愛の方なの?」と感動します。第一コリント13章には「愛は人の悪を思いません」とありますが、まさに神様は愛100%です。
 もし、神様が愛100%でなかったら、どうなるでしょう。きっと1節から13節はこうなるでしょう。
「私はあなたがたの父祖、アブラハムを召したのに、不信仰で約束の子を待ちきれない。エジプトの地で奴隷であったあなた方をエジプトから解放したのに、モーセとアロンに文句ばっかり、十戒を授け、契約を結ぶその最中には、事もあろうに、金の子牛を礼拝するわ!ヨルダン川を渡った後は、エリコの戦いの勝利で、調子こいとったんととちゃうか!アイでは聖絶すべきものをかすめ取り、そいつの名前がアカンって、ホンマにアカンやろー。結局、40年も荒野をさまよいよって、もう、やってられへんわー」
 
 そうです。客観的事実としてあるのは、神の真実さと民の不真実さです。民のありえないような不真実な応答は歴史的事実です。しかし、神様はそこには一切触れていません。ただただ、ご自身が注いでこられた真実な愛を、訴えておられます。
 お互い、いつも神様の愛に真実に応答してきたわけではないでしょう。アブラハムのような不信仰による失敗。出エジプトの民のような、救われながら、感謝は少なく不平不満ばかりの歩み。アカンのように神様の恵みにあぐらをかいてのごまかし。身に覚えがあるでしょう。
 しかし、神様は、まるで、それらがなかったかのように、この朝、私たちに、語り掛けておられます。ただただ、どんなに、私たちを愛し、守り、導いてきたかを、思い起こすようにと願っておられます・・・
 
〈自己評価〉
 ヨシュアを通じての民への語り掛けを会衆への語り掛けとしているが、仮定に基づく神の語り掛けは課題。途中から大阪弁になるのは、不敬虔と受け止められ、さらに、ネイティブの大阪弁話者には、不快感を与える可能性がある。