説教と説教者
説教と説教者
- 「おらぁ、ぶったまげただよ~トーマス・ロングの説教がヤバいぞ」
- 「標準的説教観って、最近の普及品だったの?」
- ひとり説教塾①~新年礼拝説教、導入部の自己評価
- ひとり説教塾②~神様についての想像の許容範囲
- ひとり説教塾③~預言者的説教の功罪
- ひとり説教塾④~説教の終わり方
- 「説教者は黒子、会衆がパフォーマー ~キェルケゴールの言葉から」
- 「礼拝説教中が眠い!①ショートコント」
- 「礼拝説教中が眠い!②思いつく原因を列挙」
- 「礼拝説教中が眠い!③デート中の会話に例えて」
- 「礼拝説教中が眠い!④説教中の双方向性」
- 「礼拝説教中が眠い!⑤~ユテコ、礼拝転落事件を語る」
- 「おはようを言わない牧師たち①」
- 「おはようを言わない牧師たち②」
- 「おはようを言わない牧師たち③」
- 「説教冒頭の『おはよう』はパースペクティヴらしいぞ」
「説教冒頭の『おはよう』はパースペクティヴらしいぞ」
説教冒頭の「おはよう」についての発信がブーメランとなって自分に返ってきたようです。私自身が、過剰に説教棒の言葉を意識をするようになった次第です。この主日は、某教会で礼拝奉仕。司会者が教職者だったので、模範解答のような司式をしてくださいました。
礼拝5分前に「おはようございます」と挨拶し、礼拝に備えるよう導きます。前奏が始まった後は、司式者も説教の私も「おはよう」は皆無。そして、「今日のおはようは・・・・ゼロです!」って、テレビドラマ「MER」のラストシーンか!ゼロだからと言って偉いわけでもなんでもありません。
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月曜は地域の福音派教職が集まるところで、パネラーなどの奉仕。何名かの方々から、FBでの最近の発信について感謝をいただきました。一人の牧師は、就任後しばらくして、役員から説教冒頭の「おはよう」は言わないでよいのではとのアドバイスを受けたそうです。司会者が言っているから説教者は不要という理由だったそうです。
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今回のシリーズのコメントである牧師が教えてくださったのですが、実は、加藤常昭先生が、ある書物でこの件に言及しておられるとのこと。それは、説教塾が出している「礼拝を問い、説教を問う」という書物。説教塾の中で、福音派の牧師の多くが、説教冒頭に「おはようございます」と挨拶することに、加藤先生は当初、違和感を覚えられたとのこと。
しかし、そのことを機に、説教冒頭の挨拶について問うこととなり、むしろ良いこととお考えに。古典的な説教学の書物などは、冒頭にあいさつするように書かれていること、ルター派の実践例など、説教冒頭の挨拶について、論じられております。
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加藤先生は同著の中で「おはようのパースペクティヴ」という言葉を使っておられます。これは「おはよう」という挨拶が、教会や礼拝全体についての視点を持っているという意味のようです。加藤先生は、「おはよう」との笑顔の挨拶は、教会共同体全体、礼拝のあり様、この後の説教の言葉などへの視点を持つことを記しておらえます。
説教冒頭の「おはよう」は伝統教派の挨拶の言葉とは異なるものであり、独自のパースペクティヴを持っているのだろうと、私は受け止めました。説教冒頭での「おはよう」をもし、自分が今後言うとしたら、始まりの言葉として便利だから、社会常識だからという理由ではなく、言おうと思います。自らの教会観、礼拝観、説教観、教職者観へのパースペクティヴを持つ言葉として、いつの日か私は、笑顔で明るい声で「おはよう」を言うかもしれません。
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加藤先生は「おはよう」に違和感を覚える説教者でなく、むしろ、「おはよう」と言っている説教者に、「おはよう」を言う意味を、問いかけておられるようです。「おはよう」を切り口に、多くのことを教えられました。現在もAmazonで購入可能です。
「おはようのパースペクティヴ」との表現には、教えられる思いがしています。