説教と説教者
説教と説教者
- 「おらぁ、ぶったまげただよ~トーマス・ロングの説教がヤバいぞ」
- 「標準的説教観って、最近の普及品だったの?」
- ひとり説教塾①~新年礼拝説教、導入部の自己評価
- ひとり説教塾②~神様についての想像の許容範囲
- ひとり説教塾③~預言者的説教の功罪
- ひとり説教塾④~説教の終わり方
- 「説教者は黒子、会衆がパフォーマー ~キェルケゴールの言葉から」
- 「礼拝説教中が眠い!①ショートコント」
- 「礼拝説教中が眠い!②思いつく原因を列挙」
- 「礼拝説教中が眠い!③デート中の会話に例えて」
- 「礼拝説教中が眠い!④説教中の双方向性」
- 「礼拝説教中が眠い!⑤~ユテコ、礼拝転落事件を語る」
- 「おはようを言わない牧師たち①」
- 「おはようを言わない牧師たち②」
- 「おはようを言わない牧師たち③」
- 「説教冒頭の『おはよう』はパースペクティヴらしいぞ」
「礼拝説教中が眠い!④説教中の双方向性」
〈教会学校での双方向性〉
礼拝説教は、多くの場合、説教者が30分以上一方的に語っているので、コミュニケーションとしては、一方通行になっています。これは、眠くなる要因の一つではあるでしょう。一方、教会学校はどうでしょう?
子どもを愛する教師たちは、話すというより語り掛けます。そして、子どもたちをお話に参加させます。「分かる人手上げて!」「さて、〇〇さんは、どうしたでしょう?」「みんなならどうする?」など質問します。一緒に主題となる聖句を読みます。かなり「視聴者参加型」です。聖書のお話し中に、関連のある賛美を一緒に歌っても、問題ありません。
これらは、「応答」「双方向」というよりは「参加」に近いです。多くの子どもは、長い時間一方的な話など聞けません。また、子どもは「小さな大人」ではないので、大人とは異なるコミュニケーションの方法が有益なのでしょう。
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〈自らを顧みて〉
同じことを主に大人たちが集まる主日礼拝でしたらどうでしょう?実際にしている教会もあります。昭和の大衆伝道者には、そうした方もいらっしゃったように記憶します。
私も以前は「教える説教一辺倒」だったので、3ポイントメッセージをして、ポイントごとの聖句を、会衆と共に読むようにしていました。それは、居眠り防止にはなったようです。その時よく言われたのは「とても分かりやすい」「さすが元教師」「予備校の先生みたい」。褒めてはいただいているのでしょうが、「神様からの人格的語り掛け」として受け止められなくなるようなので、ある時点からしなくなりました。
導入部では、「つかみはOK」を狙って、今でも、クイズやなぞなぞで始めることがあります。応答や参加意識をもって、メッセージに耳を傾けることを願っているからです。時には、受けを狙って、「目の覚めるような?ギャグ」を入れます。これは、すべっても、目が覚める効果はあるので有用かも。
私は自分の説教を、基本的に大衆伝道者的だと自己評価しています。一方で、上からの語り掛けを取り次いでいるとの「一方通行性の強い説教観」を持ちながら、他方では、説教者と会衆の「対話性」や説教時の「双方向性」は大切に考えて、工夫もしています。説教という行為の本質性とコミュニケーションが持つ普遍性の両者を大切にしています。ある意味、自己矛盾や説教観の不徹底なのかもしれません。
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〈諸教会での実践例〉
ある教会では、毎週のように説教者が、聖書から、神様のみこころを語り、「アーメンですか?」と問います。「アーメンです」と会衆は、大きな声で応答。黒人教会のコールアンドレスポンスを想起します。
また、教会によっては説教者が会衆に特定のフレーズを唱和させることも、「私は主に仕えます」とか「主を賛美して歩みます」とかです。これは説教中の双方向性を実現し、眠くなりません。ただ、「アーメン」であれ、特定フレーズの唱和であれ、昨今は、「誘導的」「マインドコントロース的」などの声があるかもしれませんのでご注意を。
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〈大人としての双方向性〉
説教者の説教観や説教スタイル、そして、教会の文化によるのでしょう。いずれにせよ、教会学校と礼拝とはやはり異なるようです。それは当然のこと。なぜなら。多く教会学校は、「こども礼拝」では、ありません。メッセージではなく、「聖書のお話し」です。話し手も訓練を受けた資格者でない場合がほとんど。大人と子どもの違い以上に「礼拝とそうでないもの違い」「説教と聖書のお話しの違い」があるわけです。
とは言え、会衆ができる応答もあるでしょう。神様からの語り掛けなら、説教の最中にも、応答するのは、むしろ、自然のこと。既に真面目な礼拝者は「無言の応答」をしていることでしょう。それは神様はもちろんのこと、説教者にも伝わっています。うなずく、喜びや悲しみの表情、心の中で言うアーメンなどです。声にならない静かな応答は説教中にもあり、それは双方向性を実現していると思うわけです。
そもそも礼拝全体が「神から民への恵み」「民から神への応答」という双方向性を持っています。それだけに説教時間が長く、説教中にずっと一方通行になってはならないと個人的には考えています。教会学校のようではなくても、問いかけやチャレンジなど、応答を引き出し、対話的なコミュニケーションとなる工夫はできるのでしょう。
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〈礼拝自体が持つ双方向性〉
これまた、そもそも論ですが、礼拝自体が「視聴者参加型コミュニ―ション」に他なりません。そもそも礼拝者は「視聴者ではなく、究極の参加者、当事者そのもの」です。
礼拝への参加は、自分が恵まれるためではありません。もちろん、自分が恵まれることを願うこと自体が悪いのではありません。クリスチャンとして社会で一週間を過ごして、礼拝にそうした期待をもって集うのはむしろ、良いこと。逆に期待が持てないから、クリスチャンとして、一つの不幸でしょう。
礼拝者、自らが恵まれることを願うのは当然。しかし、礼拝者の心のベクトルが「自分が恵まれること」ばかりに向かっているのは、どうかと思います。なぜなら、神様が願われる礼拝、為すべき礼拝は、ローマ12章1節が語る礼拝だからです。自分の体を捧げていく礼拝です。礼拝者の心のベクトルは、その礼拝対象に自らをささげていく方向です。
その意味で、礼拝は、本来「超参加型コミュニケーション」です。「礼拝視聴者」のような意識、「一参加者的気分」自体が、違うわけです。そこで、思うのです。礼拝者としての理想は説教を聞いている間も、自らをささげる思いで、語られる言葉に、声を出さずとも応答していくことかと。他方、説教者は、そのような礼拝者の献身にふさわしい説教を心がけ、より多くの会衆を献身的な礼拝者へと導くための努力が求められるのでしょう。
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〈まとめ〉
説教が眠くなる要因の一つは、コミュニケーションとしての一方通行性です。教会学校と大人を中心とした礼拝の違いから、見えてくる双方性があります。また、礼拝者の側も説教者の側も、礼拝の双方向性の中で、説教中の双方向性を実現するための意識変革、努力、礼拝教育が必要かと思うわけです。
とは言え、以上は、「礼拝原理主義者」の私なりの見解に過ぎません。あくまで参考として活かしてください。拙い考察や投稿が、眠くならない説教やより豊かな礼拝の一助になることを願っています。そして、次回は、いよいよ最終回。