説教と説教者
説教と説教者
- 「おらぁ、ぶったまげただよ~トーマス・ロングの説教がヤバいぞ」
- 「標準的説教観って、最近の普及品だったの?」
- ひとり説教塾①~新年礼拝説教、導入部の自己評価
- ひとり説教塾②~神様についての想像の許容範囲
- ひとり説教塾③~預言者的説教の功罪
- ひとり説教塾④~説教の終わり方
- 「説教者は黒子、会衆がパフォーマー ~キェルケゴールの言葉から」
- 「礼拝説教中が眠い!①ショートコント」
- 「礼拝説教中が眠い!②思いつく原因を列挙」
- 「礼拝説教中が眠い!③デート中の会話に例えて」
- 「礼拝説教中が眠い!④説教中の双方向性」
- 「礼拝説教中が眠い!⑤~ユテコ、礼拝転落事件を語る」
- 「おはようを言わない牧師たち①」
- 「おはようを言わない牧師たち②」
- 「おはようを言わない牧師たち③」
- 「説教冒頭の『おはよう』はパースペクティヴらしいぞ」
「礼拝説教中が眠い!③デート中の会話に例えて」
〈違いと共通点は?〉
先日の投稿への宮脇氏のご指摘や提言は、主日礼拝説教をコミュニケーション論の面から考察してくださったもの。こうした視点自体に違和感や抵抗を覚えるかもしれません。そして、突っ込みたくなるかも。「説教は一般のコミュニケーションとちがうだろーが!」と。
その通りです。礼拝説教は、外観は、学校の授業や一般的な講演と似ています。しかし、似て非なるもの。主日礼拝説教は、聖書の学びではありません。学びの要素はあってもそれだけではないでしょう。また、宗教講演会でもありません。聖書が示す価値観やキリスト教思想を伝えるのですが、本質はそれより深いものでしょう。
そもそも礼拝自体が神様とその民との人格的な愛の交わりです。そして、聖書朗読と説教は、神様から民への語り掛けに相当すると私は考えられます。
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〈婚約中カップルのデートのたとえ〉
このことは、婚約中のカップルのデートに例えられるでしょう。キリストの花嫁となるクリスチャンは、婚約中。デートの中、婚約者である彼氏は愛の言葉を語り掛けるのです。かなり乱暴な例えですが、語り掛けが聖書朗読で、その仲介や通訳が礼拝説教です。
そこで考えてみましょう。彼がどんなに熱く愛を伝えても、間にいる通訳者が、正しく通訳しないなら、どうでしょう。その声が小さくて聞こえないなら、活舌が悪すぎたら、どうでしょう。神様の熱愛は伝わらず、意味不明となれば、デートは退屈。疲れていたら寝てしまいます。
デートのたとえからご理解いただけるでしょうか。礼拝説教は、他のコミュニケーションとは意味も、目的も大きく異なります。しかし、「音声による伝達」という面では、他のコミュニケーションと同様です。一般的なコミュニケーションにおいて、有効な知恵や工夫の中には、礼拝説教にも役立つものがあるのです。前回、指摘した音声や話し方などはその一つです。それらはすぐにでも、改善や努力が可能な分野ではないでしょうか。
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〈映像などの可能性も〉
昨今は、若者対象の集会では、説教の中で映像や動画が用いられることは標準的。言葉では表現困難なイメージ、聖書の世界を伝えてくれます。若い世代の牧師たちの中には、主日礼拝の中でも、効果的に動画や音楽を用いる方々も。
言葉だけで勝負するのが、本道との声もあるでしょう。確かにあるタイプの優れた説教者は、言葉によるイメージ喚起が抜群です。でも、これは、よほどのセンスと努力がないと困難なもの。
だとしたら、礼拝説教においても音声、動画などの活用も、あるだろうと私は思います。もちろん、言葉と映像の違いには、読書と映画の違いが持つようなプラス面とマイナス面もあるでしょう。安易に用いるべきではなく、必然性と効果を考慮すべきだろうとは考えています。
いずれにせよ、会衆にとってより届く説教とするために、そうした選択肢もあるかと個人的には思っています。そのことが結果的に、礼拝中に眠くならないことにつながるでしょう。
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〈まとめと予告〉
礼拝説教をデート中の相手からの愛の語り掛けと理解すると、眠くなるかどうかの違いも見えてくるかもしれません。そもそも論ですが、礼拝をデートのような愛の交わり、説教を愛の語り掛けとして礼拝の場に身をおいていないことが、根本的な課題なのかもしれません。
もう一つ考えたいのは、コメントが指摘するように、礼拝説教が一方的なコミュニケーションとなりがちな点です。説教は一方的コミュニケーションか?それとも、双方向性を持つのか?このことは明日の投稿で。