説教と説教者

「礼拝説教中が眠い!②思いつく原因を列挙」

「なぜ、礼拝説教中に眠くなるのか?」
今回は、私なりに思いつく原因を列挙してみます。
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〈説教者側の原因〉
① 音声上の原因
 小さな声、音圧の乏しい声は、音響装置で拡声しても、不明瞭。逆に、心地よすぎる美声が眠りを誘うことも。発声は明確であるに越したことはない。聞きづらいのはもったいない。「つぶやきシローしゃべり」、「ささやき女将発声」などは、催眠効果を生じさせる。マイクの使用法が原因となることも。音響施設や操作に一因があることも。
② 話し方、言語能力
 説教以前に、言語伝達行為として、成立しにくい話し方をしていること。伝わらない言葉や表現、支離滅裂の展開、拡散して終結しない構造、主観的で共有できないこだわりなど。会衆理解努力の不足から、会衆適応性に欠け、心に届かぬ内容となっていることも。対象を無視した自分本位のコミュニケーションとなっていることも。
③ 説教者の説教観の原因
 説教という行為をどの程度、「双方向性を持つもの」と説教者が考えているかは、眠くなるかどうかに影響。また、感情を込めることや表情、動作な非音声的要素は、ある方がないよりは眠くならない。一方、そうした人間的要素は排除し、語るべきとする説教観もありかと。また、聖書箇所の説明に終始し、会衆の現実に結び付くことのないタイプの説教は一般的に眠くなる。
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〈礼拝者側の原因〉
 これは、わかりやすいのでは?前夜に夜更かし、あるいは夜勤明け。単に思春期で眠い、疲れていて眠い。長年の経験から、説教に期待をしなくなっている。眠ることが退屈、苦痛の回避となっている。礼拝自体が、形式的な義務となっている。説教者が想定している信仰的成熟度や人格的未成熟度に聴き手が達していないことも。(説教者側の想定違いもあるが)
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〈教会としての原因〉
 これは、そもそも論。そもそも教会が礼拝教育をしていない。礼拝者育成努力をしていない。「礼拝は大切」というだけで「礼拝とは何か?」「なぜ、礼拝するか?」が語られていないこと。そうした教会教育の不足。
 説教時間の短縮、礼拝プログラムの改善など、礼拝が聖域化され、必要な改革を検討してこなかったこと。礼拝における説教偏重賛美と聖餐の軽視などは時に問題視されている。
 幼児期児童期から、礼拝あるいは聖書の話を体験的に退屈、苦痛と思わせてきたこと。教会によっては、説教中に週報を読むことが問題視されないような教会文化を形成してきたこと。
 かたちだけ礼拝をしていれば、それ以上問われない体質を形成してきたこと。真実な礼拝がささげられることより、礼拝者の快適さばかりが優先されてきたことなど。
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〈まとめ〉
 常々思っていることを、忖度なく、記してみました。忖度ばかりしては、何も気づかず、何も変わらず、何も始まらないと思えるからです。原因は多種多様、責任所在もいろいろ。でも、眠くなるには理由があるわけです。眠くなるべくして、眠くなっているのです。
 「そうは言っても難しい」との現状、「それができたら苦労せんわ」との訴え、「そういうおまえはどうなんだ?」とのご批判はごもっとも。改善したくてもさせてもらえない事情、正しい改善をお願いしても拒否される現実は、痛い程、存じ上げています。
 それでも思うのです。列挙した一部であっても、再考し、努力、チャレンジできることはあるだろうと。私なりの勇気をもって、正直に列挙した投稿が、「眠くならない説教」のヒントとなり、さらには「礼拝の豊かさ」につながっていけばと願っています。