説教と説教者

「礼拝説教中が眠い!①ショートコント」

〈まずはショートコント〉
「ショートコント・主日礼拝前夜牧師夫妻の会話」
妻「子どもが寝付かないから、お願いがあるの」
夫「何でも、できることはするから、言ってごらん」
妻「明日の礼拝説教を今、ここでしてよ」
夫「・・・・・・」
妻は夫の礼拝説教の催眠効果を経験的に知っていた
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 この主日のFB格言は「寝耳に水でびっくり、寝耳に礼拝説教でぐっすり」。軽いジョークだったのですが、大学教師である宮脇聡史氏から有益なコメントをいただきました。コミュニケーション論による考察かと思いますが、実践神学として受け止めるべきかと。
 そこで、今日から始めるシリーズのタイトルは「礼拝説教が眠い!」。正直すぎてヤバいタイトル。明日は眠い原因を考察し、投稿に対していただいたコメントに応答しようと予定中。
 では、その有意義なコメントを当人の許可をいただき、転載します。明日以降もご愛読をよろしくお願いします。
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〈いただいたコメント〉
 礼拝中ずっと寝ている人はほとんどいないと思います。たいていは説教中ですし、説教が終わればたいてい目が覚めるのです。だとすれば、社会学的に言えばこれは構造化されたもの(眠りやすい仕組みになっている、ということ)かもしれません。特に誰かが一方的に話す、という状況のなす業、一方的なコミュニケーションが集団にもたらす効果とも言えます(これは大学の講義でも言えます)。
 
 だとすると、仕組みを変える必要があるのかもしれません。大学の授業では講義の中にディスカッションやグループワーク、質疑応答や発表を入れます。そうすると、受講者が眠る比率は著しく下がります。また受講者からのフィードバックをできるだけ積極的に取り、質問も取り入れて積極的に返すようにもします。多くの大学では、参加型授業の実施と効果、課題についての研修の機会が設けられています。
 
 唯一の神の言葉を語る教会のメッセージと多様な人間の諸課題を論じ合う大学の講義は、目的も語る内容の質も違う、だからひたすら耳を傾けるべし、と言ってしまえばそれまでです。かのパウロ大先生のメッセージでさえ居眠りで死人が出たほどである、とも言えます。その場合は、神の言葉は双方向対話ではなく、神が語り、説教者が取り次ぎ、ひとは傾聴すべきなのだから、ずっと聞いているうちに眠くなるのが人間の生理であるならば、居眠りもやむなし、と考えるべきなのかもしれません。だとすれば居眠り上等、ということになるのではないか、と思います。
 
 ロックコンサートの途中で居眠りはまあないでしょう。一緒に踊ったり叫んだりするからでしょう。他方でクラシックのコンサートは居眠りを散見します。一方的に提示されるものを静かに聞くから、というのは重要な要因と思います。しかしだからと言って、ではクラシック音楽も参加型に、という工夫は、それなりに実践されてはいますが、根本的には一方的な演奏の提供です。それは、音楽のもつ社会的な性格が異なるからかな、と思います。礼拝説教にも、クラシック音楽のようなところがあるのかもしれません。
 
 ただ、ではコンサートの前は体調を整えておいてください、という人と、いや、疲労困憊した人たちこそ、コンサートで癒されたりリフレッシュされたりしてほしい、という人がいるように、礼拝についても、神の前に出るのだから心して体調を整えましょう、という立場と、逆に疲れた人、重荷を持った人が休める場になれば、という立場と、両方かもしれません。メッセージの中身にもよりますが、もし後者ならば、ぐっすり眠れるほど安らかな場を作れるメッセージはメッセージを聞いてほしい、という目的には合わなくても、もっと深い教会的な目的にかなっているのかもしれません。
 
 どちらの極端にも行かずに、それでも工夫の余地はあるのかな、とも思います。たとえば教会学校のメッセージでは視聴覚を工夫したり、聞き手に語り掛けたり、ドラマをやったりして、いかに引き付けるか、いかに退屈しないようにするか、いかに実感的にとらえてもらうか、いかに生き生きとやるか工夫します。それはやはりメッセージが本当に届くため、だと思います。もしそれが問題がないなら、大人のメッセージでもそれは同じかもしれません。