説教と説教者

「標準的説教観って、最近の普及品だったの?」

 ♪知らなかったよ。空がこんなに青いとは。
そうでなくて、「知らなかったよ。標準的、正統的、伝統的と思っていた説教観が、最近になって普及したのだとは!」「説教観の歴史」を学んでいない自らの不勉強を恥じております。
 
 昨日は平野克己先生からいただいたコメントを、投稿にさせていただきました。すると、またまたコメントが!「一言だけ」と冒頭で記しながら、熱くなられ、かなりの長文に。平野先生のコメントの熱量もすごいです。
 コメントをお読みしての個人的気づき。説教者としての自分の中には、中田重治先生のDNAが受け継がれているのだろうとの気づき。何より意外であったのは、「竹森満佐一先生がそうではなかったこと」。竹森先生の説教や著書はかなり読んできたのですが、正反対の説教観を前提に読んできた自分にはトホホです。
 というわけで、サブカル的には、「標準的説教観神話崩壊!」とタイトルをつけたいような平野先生による激熱のコメントを以下に転載します。賛否両論はあるでしょうが、多くの説教者の益になることを願っています。
 
 「説教者自身が説教に対して責任をとろうとしない解説型の説教という反対側の溝に落ち込んでしまってはいないだろうか」との指摘は、自戒をもって、受け止めるべき言葉のように思いました。それから、忘れちゃいけない。次号Ministryを買いましょうね!
 ひと言だけ。《そして、大切なのはこの言葉。「聖書を肉体化して自分自身の魂の言葉として語る。そのときに、ほんとうに相手の心に届く。」これは、日本では標準的ではない、新鮮な説教観。》
 
 その通りだと思います。ずいぶんと多くの説教が聖書の傍らに立って、聖書を説明「説き明かす」ことが、説教の役割であるかのようにしています。けれども、実はこのような説教が日本で《標準的》と言えるほどに広がったのは、一時期のことなのです。
 たとえば、日本の最初の説教者である植村正久の説教、平民の福音をモットーとした山室軍平、そして何かと問題とされることのあった中田重治の説教はそうではありませんでした。
 
 そして、戦後を代表する説教者・竹森満佐一もまた違います。加藤常昭先生の著書『竹森満佐一の説教』では、その副題を「信仰をぶつける言葉」としています。竹森先生もまた、聖書の言葉と自分の信仰をひとつにしながら、聴き手に体当たりしていく説教をされました。
 
 もちろん、説教者が教祖になったかのような、自己宣伝型の説教という溝にはまらないように十分警戒しなければなりません。しかし、そのことを警戒するあまり、今度は説教者自身が説教に対して責任をとろうとしない「解説型」の説教という反対側の溝に落ち込んでしまってはいないだろうか。。。 そんなことを考えています。
 
 ひと言が長くなりました。説教について話し出すと、つい熱量が上がってしまいます。。。(トニー・エバンスの説教もまた、その熱量たるや、すごいでしょ?)牧師も信徒もみんなで集まって、そんな話しをできるといいですね。ぼくのためにつぶやきました。