説教と説教者
説教と説教者
- 「おらぁ、ぶったまげただよ~トーマス・ロングの説教がヤバいぞ」
- 「標準的説教観って、最近の普及品だったの?」
- ひとり説教塾①~新年礼拝説教、導入部の自己評価
- ひとり説教塾②~神様についての想像の許容範囲
- ひとり説教塾③~預言者的説教の功罪
- ひとり説教塾④~説教の終わり方
- 「説教者は黒子、会衆がパフォーマー ~キェルケゴールの言葉から」
- 「礼拝説教中が眠い!①ショートコント」
- 「礼拝説教中が眠い!②思いつく原因を列挙」
- 「礼拝説教中が眠い!③デート中の会話に例えて」
- 「礼拝説教中が眠い!④説教中の双方向性」
- 「礼拝説教中が眠い!⑤~ユテコ、礼拝転落事件を語る」
- 「おはようを言わない牧師たち①」
- 「おはようを言わない牧師たち②」
- 「おはようを言わない牧師たち③」
- 「説教冒頭の『おはよう』はパースペクティヴらしいぞ」
「おらぁ、ぶったまげただよ~トーマス・ロングの説教がヤバいぞ」
先日、キリスト新聞社発行、Ministryの最新号(46号)を購入。一番に読んだのが「Youtubeで味わう名説教」。トーマス・G・ロングの説教にはぶったまげた。読む説教でこんなに、鮮烈な感動を得ることがあるのだと!
個人的な感覚で芸術に例えるなら、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の初演を聞いた聴衆、ピカソの「泣く女」の前に立った美術愛好者の気分。伝統的な芸術愛好者が現代芸術に出会い、衝撃を受けつつ、新たな芸術表現に開眼するような経験だ。
ロング師は「英語圏で最も影響力のある12人の説教者」に二度選ばれたとのこと。優れた現代説教学の教師でもあるらしい。不勉強な私は知らないのですべて伝聞。というわけで、冒頭のタイトルになる。この説教を読んだことは、伝統文化に生きてきた地方出身者が、都会の現代的な文化に触れたような衝撃を与える。
テキストは申命記30章15-20だが、取りついでいるのは、ほぼ「私は今日、あなたの前に命と死を置く。あなたは命を選びなさい。」の箇所だけ。
この説教は、三つの面で、伝統派で標準とされる説教観に立つ私には衝撃的。
まずは、「帰納法スタイル」にぶったまげ。ロング師は演繹的手法を用いる伝統的なスタイルではなく、帰納的な説教スタイルの提唱者らしい。帰納的であるがゆえに、頭を通りすぎる高尚な理念や観念的な言葉でなく、会衆の生活の現場からの地に足の着いた言葉で語られる。この帰納法のスタイルで、正確でありなおかつ鮮烈さをもって会衆に心に届くことに驚き。
若い世代、ポストモダン世代に対して、演繹的説教が響いていないという痛い経験をしていないだろうか?もしかすると、説教においても、帰納的スタイルを取り入れることで、克服されるのかも。
二つ目には、「異例の構造」にぶったまげただよ。これは説教における「異形の現代アート」のように感じる。外見上は、テキストを直接扱っている部分は一部で、説教のほとんどは、六つの証詞や例話。テキストに短く触れ、あとはそれを支持する証詞や例話の羅列という構造は悪い説教の典型。「基本がなっていない」「説教観がおかしい」と御叱りをいただくパターン。
しかし、帰納法のスタイルでは、これが、テキストをいのちあるものとして会衆に届けるのだ。この点は、Ministry誌を購入し、平野克己先生の解説を読めば、納得するだろう。まさに、私には「異形の現代アート」だ。
三つ目には、「行う説教」という説教観にぶったまげ。ロング師は長老系なのだが、テキストが聴衆に向かって「しようとしていることを説教で行う」という説教観の持ち主。私自身は、テキストの解説が説教なのではなく、「テキストを通じて神が語ろうとすること」を取り次ぐのが説教だと考えてきた。近年は、教師のような教える説教は卒業して、伝達者をメインとして、時に聴衆の心に寄り添う牧会者として神の語り掛けを取り次ごうと心がけてきた。
しかし、今回与えらえたのは、重大な気づき。それは「テキストがしようとしていること」と「テキストが語り掛けること」は、似ているようで実は違うのだという気づきだ。前者には後者の持つ意外な落とし穴や不十分さを補うものが、どうもありそうなのだ。
特に説教の終わり方に、その点が反映されている。テキストの「していること」が、説教でなされ、コロナ禍を目前にした一キリスト者としての選択が迫られる。この点が一番衝撃的で、教えられた。自らの説教の終わり方がいかに、安易で、予定調和で、勝利の方程式で、模範的信徒育成志向なのかを突き付けられ、猛省。
ロング師の説教観ををこれ以上書くと営業妨害なので、やはり、Ministry誌を購入し、平野克己先生の解説を読もう。(向上心のある説教者なら、買って損はしないだろう)
歌舞伎役者は、バレエもミュージカルも鑑賞すれば、ワンピースさえ演目にする。ドラマ「半沢直樹」では、伝統芸能者ならではの演技と表現で国民を魅了した。彼らは、伝統を守っているのでなく、伝統を作り、育て、次世代へと継承している。
伝統的手法で標準的とされる説教観の持ち主である自分も、そうありたいと願う。他流や異種に謙虚に学び、同時に慎重に判断し、取り入れながら、説教者として、成長したいもの。伝統の外的現れにしがみつき、ポストモダン世代に届かず、会衆の知的満足とルーティン達成感にのみ貢献するような説教者にだけはなるまいと自戒する。自らの説教で未来を閉ざしてはならないと考えるからだ。ぶったまげの現代アートのような、しかし、本物の説教に触れながら、そう思った。
もう一度、記そう。Ministryの最新号(46号)、「Youtubeで味わう名説教」は、超絶お勧めだと。(念のために言っとくだが、おらぁ、金はもらってねーだよ)
当該説教はこちらで、動画の視聴が可能です
本号の概要と購入はこちら(個人的に同誌は超おすすめ)
こちらが、12人の説教者のリスト(勉強不足で、半分も知らんがなー)