牧師、牧師夫人、牧師交代

牧師、牧師夫人、牧師交代

「牧妻と牧夫、似ているようで大違い②」

〈「牧妻」と「牧夫」の読み方〉
 昨日の投稿に対して、一読者から、「牧妻」と「牧夫」はどう読むのかとご質問をいただきました。「牧妻」は、「極妻(ごくつま)」と同様に「ぼくつま」と読みます。「牧夫」の方は、私自身も決めていません。「ぼくおっと」「ぼくふ」「ぼくお」のどれでもよいのです。日本の教会文化の中ではサザエさんの「マスオさん」に近い要素もあるのでしょうから、「ぼくお」かなとも思ったのですが、当人に失礼かなと考え直しているとところです。
〈比較から見えてくるのは?〉
 前の投稿のように両者を比較すると見えてくるのは問題の「本質」。いわゆる「牧師夫人問題」の本質は、牧師夫人が「牧師の配偶者であること」に起因するのではなさそう。その本質は、牧師夫人が「女性であること」に起因しているのでは?つまり、「牧師の妻」だから大変なのではなく、「女性」だから、不当な扱いを受けているのでしょう。
 問題の根底にあるのは、「性役割」「ジェンダー」なのでは?それが、聖書が普遍性をもって記す性役割であるなら、いいのですが、私にはそう思えません。むしろ、聖書とは別の「世俗的な性役割」、聖書的とは言い難い「ステレオタイプのジェンダー観」のように思えるのです。それは、クリスチャン女性を縛り、苦しめるものであり、その代表が、牧師夫人だと思えてならないのです。
〈本質は女性差別問題?〉
 男性牧師も女性牧師も基本的には同じ立場のはず。性別に関係なく、神様に召された者、神様に立てられた権威、神と教会を愛し、仕える使命を受けた存在でしょう。そして、「牧妻」も「牧夫」も、「牧師の配偶者」であり、基本的に同じ立場のはず。でも、実際には、両者は似ているようで大違い。
 違いが生ずるのは、「男性牧師の配偶者だから」ではなく、「当人が女性だから」。つまり配偶者の立場ではなく当人の性。牧師夫人の大変さは「夫が牧師だから」のように見えながら、実は「自分が女性だから」という面も大きいのでは?
 そうであるなら、「牧師夫人問題」は、実は「牧師夫人問題」ではなく「教会内における女性差別問題の一類型」と捉えることができるのではないかと思えるのです。牧師夫人については、この視点で見直し、再検討する時に、より本質に迫り、的確な考察に近づくことができるのではないでしょうか。そして、その向こうに、克服の希望も見えてくるのではないでしょうか?