牧師、牧師夫人、牧師交代
牧師、牧師夫人、牧師交代
- 「何のための牧師?① ~エペソ4:12に聴く」
- 「何のための牧師?②~目的の喪失と再発見」
- 「何のための牧師?③冷やし中華始め、お世話牧会終わりました」
- 「牧師の生涯予想図としての『逆説の十か条』」
- 「究極の選択~人気牧師か?実力派牧師か?」
- 「牧師と役員会、その関係は三者三様?」
- 「ウッド先生の鮮烈なる直言とシリアスな応答」
- 「ベテラン牧師、あるあるの肉性と罪深さ」
- 「オリラジの武勇伝に学ぶ高齢者の心得 ~自己客観視で卒業を」
- 「牧師はボスか?リーダーか?闇落ちか?」
- 「信徒から牧師夫人への要求① ~言われた正反対の言葉集」
- 「信徒から牧師夫人への要求②~皇族女性との類似性」
- 「信徒から牧師夫人への要求③~牧師夫人はバロメーター」
- 「男性牧師への不満・要求を 牧師夫人に伝える女性信徒①」
- 「男性牧師への不満・要求を 牧師夫人に伝える女性信徒②」
- 「男性牧師への不満・要求を 牧師夫人に伝える女性信徒③」
- 「牧師夫人が離婚状を書く時①」
- 「牧師夫人が離婚状を書く時②」
- 「牧師夫人が離婚状を書く時③」
- 「牧師夫人って、お寺のおくりさんじゃないよね?」
- 「牧妻と牧夫、似ているようで大違い①」
- 「牧妻と牧夫、似ているようで大違い②」
- 「牧妻と牧夫、似ているようで大違い③」
- 「本質を示す一牧師夫人からの応答」
- 「牧師交代、驚愕の成功事例?」
- 「牧師交代、城南電機か?ジャパネットか?①」
- 「牧師交代、城南電機か?ジャパネットか?②」
- 「牧師交代、城南電機か?ジャパネットか?③」
- 「兼業牧師について考える①~パウロもそうだったから・・・」
- 「兼業牧師について考える②~今後、専業牧師はステータスに?」
- 「兼業牧師について考える③弟子たちもそうだったから・・・」
- 「兼業牧師について考える④~牧師の経済事情は他人事?」
- 「兼業牧師について考える⑤~牧師にパウロ求めず」
- 「兼業牧師について考える⑥~信徒にバルナバ期待せず」
- 「兼業牧師について考える⑦~専業牧師至上主義の根拠は聖書?」
- 「兼業牧師について考える⑧~背景にある牧師数激減と教会数維持」
- 「兼業牧師について考える⑨~牧師数激減と教会数維持の狭間で」
- 「兼業牧師について考える⑩~ 隣国でも兼業牧師が激増中?」
「兼業牧師について考える③弟子たちもそうだったから・・・」
〈弟子たちの事例〉
イエス様の弟子たちの多くが漁師だったのはご存知の通り。彼らは網を捨てて、イエス様に従いました。しかし、ヨハネ21章によれば、イエス様が死なれた後は、弟子たちは、失望の中、網を握って漁をしていました。そして、今日、教会では「網を捨てて、イエス様に従いましょう!」とは聞きますが、「捨てた網を握って漁をしましょう!」とは聞きません。
弟子たちが失望していたのは間違いないでしょう。では、漁をしたのは間違いかと言えばそうはないようです。注解書によれば、当時のラビたちは、失業時には、前職に復帰するなど一般的な働きをして、糧を得ていたのだとか。そのことが、必要を満たす神への信仰に反する行為と見なされることはなかったそうです
イエス様を失った弟子たちの状況と現在の兼業牧師が置かれた状況は、全く同じではないでしょう。「弟子たちもそうだったから」と簡単に結論付けることはできないと感じています。ただ、個人的には、牧師給だけでは、生活困難あるいは家族を養えないなどの場合は、これに準ずるのではないかと考えています。
ㅤ
〈積極的な面もあるのでは?〉
果たして「網」が象徴する「前職」を捨てた一度の決断と実行は、再び「網」を手にすることを禁じ、それを不信仰と断ずるのでしょうか?それとも、状況に応じて、前職の資格や専門性、技術や知識で、自らと家族の必要を満たすことを許容しているのでしょうか?
網を再び手にした弟子たちは、復活の主に出会い、大漁を経験し、空腹が満たされ、再召命を受けました。兼業牧師の方々は、単に生活の糧のためではなく、信徒と同じように教会から遣わされ、その職場で、イエス様共に労しておられる面もあるのでは?イエス様の指示で漁をしているのでは?そこで、大漁を経験したり、小さなキリストに出会ったり、召命を実感したりすることもあるのでは?そう思うのです。
つまり、牧師という専門職以前に一般的な職業人やキリス者市民としての召しを実感しておられるのではと想像するのです。実際に兼業牧師の皆様からは、一般社会で働くことで、信徒の感覚との乖離に気づかされ、未信者とのよき交わりも与えられ、それが、自然な信仰の証しにもつながることなどの声もお聞きします。また、教会では得られないような貴重かつ体験的学びを得ているとの声もお聞きします。兼業には、本業にプラスとして働く面もあるようです。
ㅤ
〈同じ聖書箇所からの異なる見解〉
「捨てたはずの網を再び手にするのは不信仰」
「漁は、主を見失い、失望した者がすること」
「牧師は、捨てた網を手にすべきではない」
「召された働きに専念すべき」
以前は、そんな見解が主流だったのでしょう。
「網を再び手にすることには聖書が許容」
「そこで、主に出会い、必要が満たされる」
「そこにも、召命があるのではないか」
「本業へのプラス作用もあるのでは?」
今回は、そうした見解を記してみました。
同じ聖書箇所から、異なる見解が生じます。この件については、正反対の判断が可能なようです。だから、是非が別れ、対立も生ずるのでしょう。各団体の基準や規則も多様なのでしょう。
ㅤ
〈まとめ〉
今回までが、このシリーズの前半。聖書から、牧師兼業化の是非を考えてみました。3回の投稿が、本件を考える助けに、また、兼業牧師の皆様、そうした牧師を支えている皆様の参考になれば、感謝です。
ㅤ
〈追記〉
この投稿に対して、「捨てた」は「置いた」とも訳せるので、漁師をやめたと解釈するのは無理があるかもしれないという趣旨のコメントをいただきました。私自身も「捨てた」との訳語のニュアンスに引っ張られていたことを自覚させられました。また「捨てたのだから、再び手に取るのはどうか?」との刷り込みがあったのかもしれないと思い至っています。
「置いた」と訳せば、大きく異なる印象を与え、別の解釈になるでしょう。一度、検討をしてみてはどうでしょうか?