牧師、牧師夫人、牧師交代

牧師、牧師夫人、牧師交代

「何のための牧師?③冷やし中華始め、お世話牧会終わりました」

〈えっ!問題視されない大問題なの?〉
 今日でこのシリーズも最終回。また、長くなってしまいましたが、お付き合いを。
 あと2か月もしないで見かけるのは、「冷やし中華始めました」の看板。私が近年、よくお聞きするのは、「お世話牧会はやめました」との言葉。決断の理由は、どれも似たようなもので「信徒が自立成長しないから」「いつまでも教会が建て上がらないから」「つくづくむなしく思ったから」など。
 その決断と勇気には、いつも尊敬を抱き、感動を覚えます。なぜなら、リスク覚悟で牧師本来の目的を選び取られたからです。これぞ、「本物」と思うからです。
 今日、取り上げたいのは「お世話牧会」。エペソ4:12が示す牧師本来の目的に反していながら、意外と問題視されないのが「お世話牧会」ではないでしょうか?
いわば「問題視されない大問題」、それが「お世話牧会」だと私は考えています。
〈お世話牧会とは?〉
 エペソ4:12は言います。
「それは、聖徒たちを整えて
奉仕の働きをさせ、
キリストのからだを建て上げるためです。」
一方、お世話牧会はこういうもの
「それは聖徒たちのお世話をして
牧師と心情的つながりを作り
信徒が教会を離れないようにするためです」
 お世話牧会の問題点、また、そこに生じる虚しさとは何でしょう?
教会は離れないが、整えられ奉仕し教会を建て上げることはない
「牧師との心情の絆」はできても「信頼関係」は築かれない
「教会運営」はできても「教会成長」は期待できない
「教会を継続すること」はできても「教会を建て上げること」はない
それどころか「将来にわたってできない体質」を固定しかねない
〈お世話伝道とお世話牧会の違いは?〉
 私は「お世話伝道」はOKで、「お世話牧会」はNGだと考えています。牧師がキリストの愛の業の一つとして、未信者や求道者のお世話をします。その愛の姿に触れ、キリストの愛を知ります。やがて信頼関係ができて福音を聞き、信仰決心。これは「お世話伝道」。聖書的な伝道手法でしょう。(もちろん、牧師に限らず、信徒にとっても伝道の一方法)
 大切なのは、「お世話伝道」で救われたその後に訪れる「分岐点」。そのまま「お世話牧会」へと移行継続するか、「自立成長促進牧会」に転換するかです。要は、切り替えてお世話をやめるかどうかです。(助けが必要な場合は、牧師個人のお世話から教会全体の支援に移行できればいいのでは?)。現場感覚で言えば、「救われたら牧師は冷たくなった、さみしい」と思われることを怖れるかどうかです。
〈お世話牧会のもたらすマイナスは?〉
 そこでお世話牧会が信徒と教会にもたらすマイナスを以下に列挙します。
 
愛とはお世話してもらうことに、受ける愛一辺倒に
牧師と信徒の関係はお世話係とお世話への御礼
牧師と信徒の関係は共依存的に
 
牧師は信徒から好かれる快感がクセに
神様との関係より、牧師との心情的関係が優先される
信仰のアイデンティティーの逸脱が起こる
 
お世話を好み、整えられることを嫌う体質となる
自分で課題に向き合い克服し、成長することがない
 
信徒は牧師依存となり、いつまでも自立成長しない
整えられないままの奉仕なので、実を結ぶことがない
 
結実のない奉仕が繰り返されても、何も積みあがらない
その結果、キリストのからだが建て上げられない
 
さらには、後継者もお世話牧会を強いられる
自分のみか、後継者も本来の目的を果たせなくなる
 
お世話牧会は、標準化し、世代を超えて継続する
教会は衰退するか、人員交代を繰り返し継続する
 
 お世話牧会をしているとの自覚のある牧師が、こうした現実を認識すれば、葛藤し、牧会方針の転換を考えるのは当然でしょう。
〈お世話牧会は違法薬物?〉
 もう一つ、私が、お世話牧会をNGとするのは、「即効性」と「依存性」があるからです。つまり、違法薬物と似ているのです。お世話をすれば、その場面では、信徒は喜びます。牧師と心情的絆が継続します。つまり、即効性があるのです。時間をかけて時には反目を経て、愛し、信頼関係を築くプロセスを省略できてしまうのです。これは悪魔の誘惑なのでは?
 
 そして、この即効性の故に、依存性が生じます。その場その場をうまく過ごすこと、短期的に良好な関係を築きながら、牧師と信徒の関係は継続します。これは、止められなくなります。逆に言えば、一旦お世話牧会を始めてしまうと、やめることに恐れが生じます。それは以下のようなリスクを予想しての怖れでしょう
 
先生は愛がなくなったと信徒に言われる
救われたら冷たくなるとの信徒からの評価
未熟な信徒から嫌われるようになる
信徒との関係の悪化、心情的反目
未熟な信徒が教会から離れてしまう
教会財政への深刻な影響も
牧師家庭の生活危機も
 
 これらはリアルかつく深刻なリスク。やめられなくなるご心情も、わからんではありません。
 以上のように、お世話牧会は、違法薬物に似て、危険なのです。即効性があり、その即効性の故に、また、やめた場合のリスクの故に、止められなくなるのです。そして、牧師交代も教会員の世代交代も超えて、教会をむしばみ続けるのです。もしかしたら、お世話牧会は、「悪魔の牧会手法」と呼んでもいいのかしれません。
〈結語~本物として本来の歩みを〉
お世話が常に愛だとは限りません
お世話が本当の支援だとも限りません
本当の愛を信徒に注ぎ、本当に支援をするために
お世話牧会は、もう、終わりにしてはどうでしょう?
自立成長促進牧会、教会形成牧会へ転換しませんか?
終わりとすることにはリアルかつ深刻なリスクが
 
それでも、お世話牧会を終わりにすることをお勧めします
エペソ4:12こそ、牧師が立てられている目的ですから
牧師はその目的遂行のために召されているのですから
「お世話牧会やめました」と語る牧師を私は尊敬します
 
なぜなら、その方は、本物だから
外形上の「成功者」ではなく、
本質における「本物」だからです
教職者の皆様おかれましては、召された目的に歩まれますように
成功者でなくても、本物としての献身生涯を全うされますように
 
冷やし中華が始まる前に、お世話牧会を終わらせますように
信徒の皆様もエペソ4:12の御言葉に歩まれますように
牧師に本来の歩みを願い、ご自身も本来の歩みをと願います
多忙で物理的にも心理的にも余裕のない日本社会ではありますが
整えられ奉仕の働きをされ、牧師と共に教会を建て上げますように
日本の教会がエペソ4:12を具現化することを願ってやみません。