牧師、牧師夫人、牧師交代

牧師、牧師夫人、牧師交代

「ウッド先生の鮮烈なる直言とシリアスな応答」

 昨日は、最近出版された「信仰という名の虐待からの解放」(いのちのことば社)を読みました。これは、パスカル・ズィーヴィー先生とウィリアム・ウッド先生の共著。カルトに重荷や関心のある方は、もちろん、現役の教職者や神学生にはぜひともお読みいただきたい内容。なぜなら、カルト問題とは別の観点でも、聖書的な牧会や教会形成についての深い示唆が与えられるからです。
 その中で、ウッド先生の鮮烈な直言をご紹介。それは、109ページに記さているこの言葉。
「はっきりと申し上げますが、人を成長させないで、いつまで経っても自分の優越性ばかりを主張し、人を自分に依存させる指導者は、羊飼いのなりをした狼なのです。」
 今回は、いくつかのポイントに分けてこの鮮烈な直言に応答してのシリアスな論考。
① 「はっきりと申し上げますが」
 よくぞ、はっきり、おっしゃってくださいました。「羊飼いのなりをした狼」は、極々一部の牧師に過ぎないでしょう。でも、同じ誘惑やその傾向性は、多くの牧師にあるのでは?その意味で、私も当事者感をもって厳粛に受け止めざるを得ません。
② 「人を成長させないで」
 この直言の前で、ウッド先生は、自立した信徒の育成が教会教育目的であるはずなのに、権威主義的な指導者は異なる教育目標を持つことを指摘しています。
 信徒が成長して自分を離れ自立することを寂しく感じ、自分より成熟することを嫌悪する肉的思いが生ずることもあるでしょう。大切なのは、それを、肉的と認めて、悔い改めて捨てるかどうか。
 聖書から主体的な判断ができる自立した信徒を願わず、自分が信徒を支配するための教育は、「愚民政策」「衆愚政治」。さらに、その教育は「操り人形育成」「牧師による信徒の自己目的利用」。これでは教会が膨張して「大規模幼稚園」になっても、「キリストのからだ」として建て上げることはないでしょう。
③ 「いつまでも自分の優越性ばかり主張」
 常々思います。牧師は牧師である前に信徒なのだと。天皇家が国民でないようにカトリックの神父は「聖職者」であり、信徒ではありません。しかし、万人祭司のプロテスタントの牧師は「教職者」であり、信徒。召しや役割が異なるだけで、役職は尊重されるべきですが、その地位自体に優越性などありません。
 では、なぜ、優越性を示したいのか?その理由は劣等感?満たされぬ自己承認欲求?低い自己肯定感?牧師こそ、神に向き合い、自らと自らの課題に真摯に向き合うべきでしょう。そうでないと牧師個人の歪みが教会全体の歪みに反映しかねません。
 「教会で最も悔い改めが下手なのは牧師」とは時々お聞きする牧師の自虐フレーズ。同様に、「教会で最も自分の問題に無自覚で、向き合おうとしないのは牧師」というケースもあるのでは?
④「自分に依存させる指導者」
 牧師の使命は信徒を自分に結び付けることではなく、信徒を神様に結び付けること。牧師が未熟な信徒や依存的な信徒にすべき努力は、いかに健やかに自分を離れさせ、自立に向かわせるか。牧師はいわば、触媒、媒介者、支援者。
 信徒を自分に依存させ、「自分がいないと、やっぱり、だめ」と信徒に思わせるなど、言語道断!それは、「信徒の成長妨害行為」であり、「信徒を利用した自己優越感獲得行為」。
 しかし、高齢になるに連れ、この肉的傾向が強まるのも、事実。中には、「この教会は自分でないとやっぱりだめ」と信徒に思わせるため、後継者育成を先延ばしし、責任移譲を拒み続け、自分と共に教会を高齢化させ、衰退させてしまうケースも。
 さらには、後任者が教勢を衰退させるのを見て、「やっぱり自分でないと」と自己価値確認をする方も。これは明らかな間違い。なぜなら、責任移譲後の教勢衰退の原因は、後任者ではなく、自分に信徒を依存させた前任牧師にあるからです。
⑤「羊飼いのなりをした狼」
 ウッド先生は同著において、聖書に登場する「食い物にする」という言葉を現代のカルト化した牧師、権威主義の牧師に適用します。食い物にするとは、牧師が信徒を利用して自らの欲求を満たすことを意味します。つまり、羊飼いが羊を食べて、自らの腹を満たす行為です。その人物は、「羊飼い」ではなく、「羊を食べて肥え太る狼」です。
 時々、「自己承認欲求」を動機に献身し、「自己優越性」を示すために奉仕し、「自己実現」の舞台として教会を利用しているのでは?と心配になるケースを見聞きします。当人は自覚がないのでしょうが、それは、まさに「羊飼いのなりをした狼」。牧師は羊飼いなのであって、狼ではありません。「羊を牧するために」召されたのであって、「羊を食するために」召されたのはありません。
 最初から召しを勘違いしていたのか?それとも途中から召しを逸脱したのか?いずれによ、牧師は常に羊を飼う者との自覚を持ち、神様の視点から自己客観視を怠らず、逸脱しかける自分を発見し、軌道修正をすべきかと思うのです。
 いいえ、自分を見失い逸脱しかねないとの自覚をもって、伴侶、家族、役員、同労者などの愛の進言を、真摯に受け止めるべき。羊を食する狼に向かわないためには、愛をもって真実を語ってもらえる正直な交わりに生きることでしょう。自戒を込めてそう思います。
 以上、ウッド先生の「鮮烈な直言」に応答して「シリアスな論考」を記してみました。
「はっきりと申し上げますが、人を成長させないで、いつまで経っても自分の優越性ばかりを主張し、人を自分に依存させる指導者は、羊飼いのなりをした狼なのです。」
 読者の皆様は、ウッド先生の勇気ある直言をどう受け止められるでしょう。拙い論考ですが、羊飼いの皆様とそれを支える方々のために、お役に立てば感謝です