教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「~しなければ分からない」を「~しても分からない」にしないために

 先日ネットで「医療崩壊しなければ分からないのか?」というタイトルを目にした。読んでないので、内容は不明だが、このタイトル自体に心痛めた。医療崩壊によって助かるはずの患者が死に至るとしたら、今の時点で、生活様式や行動を変える必要がある。医療崩壊が起こってから、分かっても、失われたいのちは帰ってこない。
 
 さらに、心痛めたのは、教会にありがちな「~しなければ分からないのか?」に思いが至ったから。「~しなければ分からないのか?」と思う教会を時に見聞きするから。容易に予想される現実から目を背け、分からないのではなく、分かろうとしないケースがあるから。
 
「子どもと青年が皆無にならなければ分からないのか?」
「財政破綻しなければ分からないのか?」
「無牧にならなければ分からないのか?」
「教会統廃合を迫られなければ分からないのか?」
 
 しかし、もっと悲しいことがある。それは、「~しなければ分からない」が、実は「~しても分からない」であったと判明すること。テレビが欧米から伝えるのは、医療崩壊やロックアウトに至ってもなお生活様式を変えぬ一部の人々の姿。日本の視聴者は、驚き呆れるが、果たしてその姿は他人事だろうか?
 
 上に示した「~しなければ、分からないのか?」が「~しても分からないのか?」に至ったケースを多く見聞きしている。「~してもわからないのか?」の「~」の部分に「子どもと青年が皆無」「財政破綻」「無牧」「教会統廃合」などを入れても、成立する事例は決して少なくない。
 
 残念な現状、不都合な現実を認め、信仰をもって、向き合とおうしなければ、そうなるのは必然だろう。結果を問題にしているのではない。信仰をもって向き合いながらも残念な結果になることはある。問題は結果でなく、そこに至ったプロセスだ。現実を認めようとしない姿勢、向き合うことから逃げてきた経緯、責任転嫁や責任の先送りをしてきた歩みこそが問題だろう。
 
昨年はどうだったろう?
「通常の礼拝を奪われても、分からないのか?」
「これまでの賛美や交わりや伝道方法を制限されても、分からないのか?」
「聖餐の恵みを失っても分からないのか?」
 
 日本のクリスチャンは、コロナによって、奪われ、制限され、失った結果、分かっただろうか?分かるよう教え導いたり、教え合い、学び合ってきただろうか?以前は、分からなかった礼拝、賛美、交わり、伝道、聖餐の大切さや意味、目的を悟っただろうか?コロナ収束後には、分かった者として、新たな歩みをしていくだろうか?
 
クリスチャン個人も教会も、この三つに大別できると思う。
「~しなくても、分かる」
「~しなければ、分からない」
「~しても、分からない」
 
 お互いは、また、集っている教会は、三つのうちのどれだろう?
神様は「~しなければ、分からない」が「~しても、分からない」になることを願ってはおられないだろう。
 
神様は「~しなければ、分からない」が「~しなくても、分かる」となることを願っておられるに違いない。