教会形成、教会教育
教会形成、教会教育
- 「即効性の誘惑と罠(上)牧師たちを襲うもの」
- 「即効性の誘惑と罠(下)~カルト化要因の一つとして」
- 「牧師が船長で、信徒は乗客なの?」
- 「信徒様はお客様、お客様は神様、だから信徒は神様?」
- 「キリスト者の消費者化についての優れた投稿を紹介」
- 「消費者概念の成熟と自分らしさというニーズ」
- 「2、30年の慣習は伝統なの?」
- 「あるのは、良き慣習と悪しきしがらみ?」
- 「発展につながる伝統継承、衰退をもたらす前例踏襲」
- 「前例踏襲から、新たな前例の形成へ①~女性のライフスタイル」
- 「前例踏襲から、新たな前例の形成へ②~ハムステーキの話」
- 「前例踏襲から、新たな前例の形成へ③~問われる礼拝」
- 「仕方ない帝国か?神の国か?」
- 「~しなければ分からない」を「~しても分からない」にしないために
- 「信仰は、お花畑じゃない、農園だ!」
- 「サロンとライブハウスだけ? ~他者批判と自己批判はセットで」
- 「ノイジーマイノリティーに振り回されず、サイレントマジョリティーに耳を傾ける」
- 「クリスチャンらしいクリスチャンとキリストらしいクリスチャン」
- 「ベテラン牧師の証し~尊敬の念と痛い問いかけ(上)」
- 「ベテラン牧師の証し~尊敬の念と痛い問いかけ(下)」
- 「ありがちな課題かも①~信徒からの素直な声」
- 「ありがちな課題かも②~悲しい結果的排除」
- 「ありがちな課題かも③~誤解や行き違い」
- 「ありがちな課題かも④~愛が動機、内容は真実」
- 「ありがちな課題かも⑤~牧師と信徒のコミュニケーション」
- 「ありがちな課題かも⑥~未信者には難しい説教」
- 「ありがちな課題かも⑦ ~説教の難さが意味すること」
- 「ありがちな課題かも⑧~礼拝と伝道の両立」
- 「教会の除名は、暴力団なら破門か?絶縁か?」
- 「虎は死して皮を、牧師は辞して役員を残す①~評価は退任後」
- 「虎は死して皮を、牧師は辞して役員を残す②~見えにくい要素」
- 「虎は死して皮を、牧師は辞して役員を残す③~成熟した役員像」
- 「虎は死して皮を、牧師は辞して役員を残す④~未熟な役員像」
- 「虎は死して皮を、牧師は辞して役員を残す⑤~破壊的役員像」
- 「虎は死して皮を、牧師は辞して役員を残す⑥~起爆剤or地雷」
- 「アメリカにはクローザー牧師がいるんだって①」
- 「アメリカにはクローザー牧師がいるんだって②」
- 「アメリカにはクローザー牧師がいるんだって③」
- 「教会の閉会を船にたとえて①~廃船するとも漂流するなかれ」
- 「教会の閉会を船にたとえて②~船は捨てても、いのち捨てるな」
- 「教会の閉会を船にたとえて③~廃船もあれば、造船もある」
「消費者概念の成熟と自分らしさというニーズ」
〈さらなる応答に考えたこと〉
先の投稿に対して、某牧師よりさらなる応答が。当人にご許可をいただき、それを転載します。ここには的確な現状認識に基づいた聖書的な高い意識、そして、優れた考察と将来への指針が記されていると思います。
私自身はこの記事を読み、「消費者概念の成熟」のマイナス面としてクリスチャンの内にある「どうしようもなく染みついた消費者根性」を考えざるを得ませんでした。消費者であれば、まさにそのニーズは「普遍的真理」ではなく、「私らしくありたい」でしょう。
そこから始まるのは・・・・。
「神が願う私になりたい」とは異なる「私らしくありたい願望」という消費者のニーズが求道の動機。時には、その願望がその後の仰生活の原動力であり続けることも。そのニーズを満たすのが、生産者である教会や牧師たち。
そうなれば、神の民は、「キリストの体」とのアイデンティティーを失い「個人消費者」となります。個人消費者なのですから、「顧客満足度」で牧師と教会を評価して、取捨選択します。そのような「消費者の動向」に応答してしまえば、教会は「顧客満足向上」に走り、地域の教会間に働くのは資本主義的な「市場原理」。
消費文化と資本主義イデオロギーの中、今日のクリスチャンは常に、消費者根性を信仰心の根底に置いてしまう危険と隣り合わせ。一方の牧師と教会も、教会内の平和と牧師と信徒の円満関係を考えてしまい、「私らしくありたい願望」の充足を優先する誘惑といつも隣り合わせ。
消費文化と資本主義イデオロギーに飲み込まれてしまうなら、簡単にその危険と誘惑に陥りながら、なおも「無自覚」でいられてしまいます。さらには、そのようなプロセスで教会員を増やした教会やリーダーが、評価と称賛を受け、それを「成功モデル」としてしまうという「悲劇」も。
〈福音の力への信頼〉
ですから、本来の福音と教会であるために、飲み込まれるのではなく、むしろ、福音の力に信頼したいと願うのです。それは、「福音は文化やイデオロギーを超える」という事実への信頼です。確かに、聖書のテキスト解釈さえも、読み手の背後にある文化とイデオロギーに多大な影響を受けることは否定できません。しかし、福音には、文化とイデオロギーに抵抗する力もあれば、そこに浸透する力もあり、さらに、それを取り込む力もあるはずです。
そうした福音の力への信頼が第一であって、その力を具現化していく知恵や方法は、二次的なものとして、私たちに委ねられているのでしょう。場合によっては、福音の力に対する信頼のなさやその力の体験の乏しさが第一の問題かもしれません。その課題の克服は当然のこととしながら、この時代と社会にあって、福音の力を具現化していく知恵や方法論の模索が必要なのは間違いないはず。優れた考察に触れて、そんなことを考えました。
〈その投稿のご紹介〉
では、某牧師の記事を以下に転載します。
「愛知県在住の敬愛するM牧師のスレッドで、真理と教会の宣教との関りについてFB上で大きな議論となりました。「真理は自由にする」どころか束縛になっている現状、そもそも人々は真理を求めていないなどの指摘があり、興味深く議論を読みました。
話は変わりますが、私は聖書解釈に興味があり、自分なりに学んできました。20世紀中葉から読者からのテクスト解釈についての理論が発達してきたのですが、資本主義下での消費概念の成熟と関係があると思っています。テクスト著者・編集者・出版者は生産者であり、読者は消費者です。もしかしたら、この図式はメッセージを語る側と聞く側としても表現されているかも知れません。
”真理離れ”が「私らしくありたい」という選択余地が広がった消費者的欲求の発露の一つとすれば、この欲求に福音のメッセージがどのように付き合えばよいのか、大切な課題であると思います。「私らしくある」そのものは決して福音の本質ではないと判断するからです。
ですが、福音は文化やイデオロギーを超えていくものであると確信するならば、消費者的傾向にも浸透していくことはできる(ある場合は抗しつつ、ある場合は取り込みつつ)でしょう。まだ教会はそのモデルを見出し切れていませんが、試みを怠るわけにはいかないようです。」