教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「信徒様はお客様、お客様は神様、だから信徒は神様?」

 
 〈聞かなくなった『信徒はお客様ではありません』〉
 かつて、教会でよく聞いた言葉は「信徒はお客さんではありません」。最近は、あまり聞きませんなー。 以前は、多くの信徒がお客であってはならないと自戒し、自覚のある信徒はそのことを恥じていました。ところが、最近は、「自分、お客様ですけど、何か?」と考えているかのようなクリスチャンもチラホラ。「生涯、お客様でいいから、教会を離れないでね」と無言のメッセージが聞こえてきそうな牧会現場もあるような、ないような・・・。
 
 消費社会の末期症状でしょう。消費が人間の存在価値を作り上げるレベルに及んでいるかのようです。知人牧師の名言を借りれば、「我、消費する故に我あり」が、日本社会に生きる私たちのアイデンティティーとなってきている感があります。信徒の中には自分が「顧客」で、教会や牧師を「霊的精神的サービス提供業者」と位置付けておられる方も少なくなさそう。
 そして、本気で、牧師と教会の責任は自分の霊的・精神的ニーズを満たすことだとお考えの方も。その結果、顧客満足度で牧師と教会を取捨選択するクリスチャンたちが現れて、久しいのは、周知の事実。
 
〈悪魔の三段論法〉
 そうした方々の頭の中はどうなっているのだろう?と考えました。その推測した結果、見えてきたのが「悪魔の三段論法」。
「信徒様はお客様→お客様は神様→だから信徒は神様」
 きっとこんな三段論法が、頭の中で成立し心のどん底まで根差しているのだと予想します。この論理が生み出す「オレ様=お客様=神様」というアイデンティティーが「神の民」「キリストの体の一部」とのアイデンティティーにとって代わっているように思えるのです。
 近年見られる自己愛傾向も手伝ってのことでしょう。自分が神様なら、自分の以外の他者は、牧師も教会も神様もすべて、自分に仕えて、サービス提供し、ニーズを満たす存在に過ぎません。
 
 そうなれば、教会も牧師も、キリストではなく、信徒の意向に沿うことが最高の善とされます。(信徒の正しいニーズを満たすことは善ですが、最高善ではありませんし、ニーズの是非を問わず、応答することは逸脱でしょう。)その結果、もはや「教会のかしら」はキリストでなく、教会員という「圧力団体」。
 まさに、悪魔が、今日の消費者社会を利用して、福音の光を見えなくしているように思えてなりません。悪魔が、クリスチャンの頭の中に「消費者意識」を吹き入れて、「神の民・キリストの体としての意識」を追い出しています。消費者論理の上に福音を置くように、操作しているわけです。
 かつて日本のキリスト者を「日本経キリスト派」と評した山本七平に倣えば「消費者教キリスト派」のようです。ですから、そのありようは「信仰生活=霊的精神的消費行動」。献金、奉仕、礼拝出席、聖書・お祈りという「5点セット」の対価を払い、満足のいく霊的精神的サービスの提供を受けるのです。
 
〈教会を蝕む市場原義主義〉
 その結果、教会は、聖書が示すあり方とは異なる「市場原理主義」の歩みを強いられます。言い換えるなら、教会員のニーズを満たすことが最優先とされる「キリストをかしらとしない体制」へと移行をするようプレッシャーをかけられます。教会の主権者が「キリスト」から「信徒という圧力団体」へと「政権交代」されるのです。これは、本来、あってはならない「下剋上」「謀反」「教会ジャック」です。
 しかし、それは意外と簡単に起こります。起こっている自覚がないことも。それが悪いとすら思っていなかったりします。ですから、非常に厄介です。
 場合によっては、牧師と信徒が「共犯関係」あるいは「共依存関係」になるので、お互いが心地よく、安定した長期政権を築くことも。とりわけ、一人の牧師の長期政権の下にある顧客満足度の高い教会などは、地域からの信徒の移動によって礼拝人数が増えて大教会となることも。そうなれば、牧師は、称賛され、豊かに用いられます。
 最も悲劇的なことは、それが「成功事例」とされてしまうこと。そのありように、多くの牧師と教会が追従してしまうことです。それは、あくまで「市場における成功事例」であり、神様の目に「成功事例」であるとは限らないからです。
 
〈責任の所在は?〉
 既に記したように、この問題は信徒だけに責任を問うべきではないでしょう。「共犯関係」も「共依存関係」も、牧師と信徒の両者が作り出すものだからです。
 もし、「お客様でもいいから、教会に留まって、礼拝出席、奉仕、献金」という非言語的メッセージを教職が信徒に送っているならどうでしょう?あるいは、教職者が、信徒という顧客の満足度を満たすことを、聖書が示す教職としての使命や責任より優先してしまっているなら、どうでしょう?さらに言えば、教職者自身が、消費者社会の思想の流れに取り込まれて、自らを見失っているとしたら、どうでしょう?
 時に、教職者側の非聖書的姿勢が、信徒のお客様意識を助長し、「オレ様=神様」までに思い上がらせ、教会を不健全化しているケース。信徒と牧師の関係を良好にするためには仕方ないとの「悪魔の誘惑」に屈しているのでは?と思わせるケース。牧会が実質上、信徒の「5点セット」の対価に対するサービス提供となっているケース。そうしたケースも少なくないように感じているのは私だけでしょうか?
 
〈問いかけとまとめ〉
「信徒はお客さんではありません」
 教職者から、先輩から、そんな言葉が聞かれなくなった日本の教会。言いづらくなったのか?言うとまずくなったのか?言うことが虚しくなったのか?
 
 それと入れ替わるように、日本のクリスチャンの頭の中に成立し、心の奥底まで深く根差したのは、悪魔の三段論法なのでは?
「悪魔の三段論法~信徒様はお客様、お客様は神様、だから信徒は神様」
 
 一度、考えてみましょう。
・自らの内に、この悪魔的三段論法がないかを。
・他者に対して、それを助長したり、許容したりしていないかを。
・その結果、教会を逸脱させ、神様を悲しませていないかを。