教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「ベテラン牧師の証し~尊敬の念と痛い問いかけ(下)」

 昨日の続きです。先の投稿で記したベテラン牧師のお証しに三つのことが、問われるように感じました。以下がその三つの問いかけ。
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① 私たちは、子どもたちや知的な弱さをもった方々の言葉や見解を軽視してはいないでしょうか。時に、遠慮も忖度もないからこその本質を示す言葉があることを心得ているでしょうか。聞くべきその言葉を大人の都合や相手の未熟さや弱さを理由に、あまりに安易に黙殺していないでしょうか。
 第一コリントの12章は、弱い器官こそ、教会には「なくてはならない」としています。私たちはその必要不可欠な方を軽視して、聖書が記すその存在意義を失っていないでしょうか?その方を送ってくださっている神様の思いを損なっていないでしょうか?
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② 牧師の説教に不満を抱く方は少なくないでしょう。(追記:未信者に届かない説教ばかりで困るとの不満)では、牧師の説教が改善され、未信者の心に届くようになったら、彼のように、知人や友人を、教会の礼拝にお誘いするでしょうか?あるいは、説教向上を願うのは、結局、自分が恵まれるためでしょうか?私たちは他者の救いと自己充足のどちらを優先しているのでしょうか。
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③ 弱さを持つ教会員が用いられ、同じ弱さを持つ方々が、次々と集い始め、救われていったら、私たちは、そのことを純粋に喜べるでしょうか?能力や生産性や貢献度によって人を評価することなく、共に歩めるでしょうか?教会の居心地が悪くなり、不本意な思いを持たないでしょうか?
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 三つの問いかけから、見えてくるのは、教会に集うクリスチャンが時に、救霊を妨げ、同質者限定の快適な交わりを指向して、無自覚に標準的でない方を教会から排除し、神の働きを妨げている可能性。
 もし、可能性でなく「事実」であれば、認めて、自覚して、悔い改めて、その実を結ぶしかないでしょう。それはきっと厳しいチャンレジなのでしょう。しかし、その向こうにこそ教会の希望ある未来、教会本来のありようの実現が見えてくるように思います。