教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「ノイジーマイノリティーに振り回されず、サイレントマジョリティーに耳を傾ける」

 
〈ホリエモン発言〉
 ホリエモンこと堀江貴文氏が、東京オリンピックが無観客開催となったことについて「ノイジーマイノリティーに負けた」と批判し、話題に。ここでは、無観客開催の是非は論じない。今回、注目したいのは、「ノイジーマイノリティー」という言葉。「サイレントマジョリティー」は「何とか坂48」のおかげでかなり普及したが、「ノイジーマイノリティー」は、聞きなれない言葉だろう。
 リーダーなど、決定者、責任者にしてみれば、物言わぬ多数派の声は聞こえてこないので、スルーしてしまいがち。逆に、大きな声で訴える少数者の声は必要以上に届いてくる。その結果、全体の声を平等に正しく聞くことができず、全体の意向とは大きく異なり、全体の益に反する判断、決定、実行がなされがち。
 このことはキリスト教会も同様。教会政治がどのような形態であれ、教会は一般社会の民主主義とは異なる。しかし、教会員の声や思いが、牧師や役員らに正しく平等に伝わっており、それも重要判断材料の一つとされた上で、神様の御心が検討され、教会がその御心に歩むことが望ましい。しかし、なかなか、そうはいかないのが現実。
〈教会内のノイジーマイノリティー〉
 教会にはしばしば、ノイジーマイノリティーが存在する。それは、教会を支えてきたベテラン信徒、教会財政を支える富裕信徒、声が大きく発言力のある信徒、信徒の不満を集約した批判的発言を得意とする信徒、問題を過大評価して訴える主観主義的信徒、傷つくと大きな声で訴え周囲をコントロールする自己愛強すぎ系信徒などなど。
 こうした声を受けると、内容の是非を検討することは実質できず、声の主の意向に沿う判断と実行が強いられることも。あるいは問題の本質よりも、当面の平和を優先して、必要な手術を先送りにし、応急処置を続けることに。聖書や御心や総会での決定方針とは、別の基準で教会全体が動いていく。必要な手術をしないので、症状は悪化をし続けていく。
 ノイジーマイノリティーの声を取捨選択せず、意向に沿うなら、教会がどうなっていくかは明白。とりわけ、しがらみなく本質を観察できる若い世代が、失望や疑問を覚え、教会を離れるのは、必然。
 しかし、そうした歩みを余儀なくされるケースも少なくない。一旦そうなると変更は困難。牧師転任、声の主の転会か召天、教会分裂でもないと事態は変わらないことが多いのでは。できれば、そうしたことなく、事態の改善をと願うばかり。
〈教会内のサイレントマジョリティー〉
 一方で、声をあげたくても、あげられない、あるいはあげてはならないと信じている「サイレントマジョリティー集団」が教会に存在する場合も。
 教会がどこに向かっているかわからず、モチベーションを失っている信徒たち、活動や集会の目的が不明で深いストレスを抱える信徒たち、実を結ばぬ活動の継続を強いられ徒労感を覚えている信徒たち、過剰な奉仕による疲れを言い出せない信徒、万事、牧師に正直な思いを伝えられない信徒、牧師に意見を言うことは不従順だと考えている信徒たち、過去の経験から牧師・役員に何を言っても無駄だと諦めている信徒たち、上の世代は一方的で声を聴いてくれないと判断している次世代信徒たち・・・。
 声をあげられないまま過ごし、最終的には、「教会から姿を消すという言葉」でメッセージを残すしかないケースも。それは悲劇だが、それを、リーダーたちが、離れた信徒の「未熟さ、わがまま」としか評価しないなら、それはさらなる悲劇だろう。最後の改善のチャンスを逃しているからだ。
〈そこで思うことこと〉
 そこでこう思う。
「ノイジーマイノリティーに振り回されず、サイレントマジョリティーに耳を傾ける」
 ノイジーマジョリティーに振り回されることで、つくられた不健康体質は、サイレントマジョリティーの声に耳を傾けることによって、改善される可能性がある。もし、サイレントマジョリティーの声が自己利益でなく、善意と愛によるものなら、その希望は大きい。
 それらの声は、リーダーたちの自己客観視を助け、リーダーたちの課題を示す。リーダーたちが、間違いを認め改めるなら、改善が始まる。聞こえづらい声に気が付くか?は、教会のように一定権威が尊重される組織では、リーダーの大切な資質。また、今の時代、さらに今後はいよいよ、自分なりの聖書的正論や教会の慣習で相手を説き伏せようとせず、まず信徒の声を真摯に受け止め、対話するリーダーが、求められていくのだろう。
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 信徒の側も、愛と善意という動機なのかどうかを自己チェックした上で、秩序や権威は重んじつつ、丁寧な言葉で、リーダーたちに正直な思いや意見を伝えることは、聖書的に正しいことだと私は思う。
 自己不満や個人的怒りなど、愛と善意に反する動機で、丁寧でない言葉で伝えることが、リーダーたちを過剰に自己防衛的にし、聖書的正論や自論で相手を説き伏せ、対等な対話をできなくしている面もあることを理解していただけたらと願う。
ㅤもう一つ。他者批判でなく「自分のこと」いいえ「私たちのこと」として、伝えよう。なぜなら、教会は他者ではないから。自分自身はキリストの体の器官、教会の一部だから。それを忘れた批判は、正しくても破壊的になりがちだから。
  今回は、かなりヘビーな内容になってしまったが、一度考えてみてはどうだろう?
「ノイジーマイノリティーに振り回されず、サイレントマジョリティーに耳を傾ける」を。