教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「アメリカにはクローザー牧師がいるんだって②」

〈閉会は「教会の死」に非ず〉
 昨日の投稿に対しは、有益なコメントが満載。それを受けて、あと2,3回ほど、記してみます。昨日のコメントでは、基本中の基本を示していただきました。それは、教会の閉会は「教会の死」ではないこと。
 教会は召された信徒たちの集まり。建物や組織としての教会は終わっても、散らされる信徒たちの信仰は継続し、主の体としての教会は終わりません。私は、それぞれの教会は、「公同の教会」(目に見えぬ普遍的一つの教会)が、具現化されたものだと考えています。
〈「細胞の死」で「体の死」ではない〉
 ですから、一つの教会の閉会は、キリストの細胞の一つが役目を終えることであり、「教会の死」を意味するわけはないでしょう。人間の体では、日々、多くの細胞が死滅し、新たな細胞が生み出されて、生命が維持されています。それと同じだと思うのです。
 教会閉鎖は一細胞の「お役御免」であり、他方で新たな教会は産み出されています。そして、キリストのからだは生き続けています。閉会教会の信徒方は、新たな教会で、キリストからだにつながり、豊かないのちにあずかるのです。
〈「お葬式」でも「おくりびと」でもない〉
 ですから、「閉会」は「お葬式」でなく「お引越し」。役割を終える教会の信徒が他教会に移るのです。(追記:コメントにあるように「住み替え」がさらに適切でしょう)そして、クローザー牧師は「おくりびと」でなく「お見送り牧師」。「お見送り芸人しんいち」ならぬ「お見送り牧師〇〇」です。閉会する教会の信徒を助け、次の教会での信仰生活に向かうのを「お見送りする」のです。
 「公同の教会」「召された者の集まり」「主のみからだ」など、教会の基本中の基本を確認するだけで、「閉会」が「教会の死」でも「お葬式」でもないことがご理解いただけるかと思うのです。昨日記したように閉会は、「敗戦」でもないし「戦死」でもないのです。神様の視点から見るなら、また、客観的に見ても、そんなに悲惨でも、絶望的でも、屈辱的でもないのです。
〈次回は正論と問いかけ〉
 とは言え、閉会には、強い抵抗感や心情的反発があるのもまた事実。まるで、それまでの信仰生活と労苦が全否定されるような思いがする方も。教会という建物がなくなること、組織が消滅することが、信仰のアイティティーを失うかのような感覚になることも。
 とりわけ、会堂建築に際して、信仰のゆえに多額の献金をささげてきた方の徒労感、失望は想像に難くありません。教会や団体のアピールに応答して、宣教の結実を願って、信仰をもって、軽くはない犠牲を払ったのです。悪い投資話に騙されたかのような怒りを抱いてしまう方も、きっといらっしゃるでしょう。
 そうした現実やご心情は愛の想像力をもって理解した上で、それでも「伝えたい正論」、「問いかけたい本質」があります。次回はそのことを記します。