教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「ありがちな課題かも⑥~未信者には難しい説教」

〈そもそも主日礼拝は伝道の場か?〉
 私は教会の最優先事項は礼拝だと考えています。しかし、同時に、日本は宣教地であり、礼拝とは別に毎週、伝道目的の集会を持つことが有効ではない多忙な社会だと考えているので、主日礼拝においては、一定、未信者を意識し、配慮すべきかと考えています。
 そもそも「礼拝は伝道の場か?」という疑問もあれば、「毎週のメッセージが未信者にほぼ分かる説教でなくてはいないのか?」という疑問もあります。初期の教会では、信徒のみがささげる聖餐式礼拝と未信者の参加がゆるされる御言葉礼拝との二度の礼拝がもたれていたと学んだことがあります。(付記:コメントンにあるようにコリント教会では未信者が参加することが想定させています)。時間に余裕のあった昭和なら、主日午前の礼拝と夜の伝道会というパターンも可能でしょうが、忙しい社会にあっては、機能しませんし、信徒にはきつ過ぎるでしょう。
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〈共有が必要なのでは?〉
 多くの教会では、共通理解のための取り組みがされていないので、実は、「礼拝がどの程度のレベルで伝道的役割を果たすべきか?」についての認識が信徒各自によって、大きく違うのが実態のようです。ある方々は、「教会の礼拝に誘う→牧師の説教を聞く→福音に応答して→信仰決心・受洗」というのを「唯一の勝利の方程式」のように思っています。
 一方で、聖書の言葉は、直接的には、信仰者に向けて書かれており、礼拝も神と神の民との交わりです。(付記:コメントにあるように、福音書は未信者向けに書かれています。)ですから、礼拝説教を常に全面的に未信者指向にはできません。毎週が伝道説教なら、信徒は永遠の幼稚園児です。信仰歴のある信徒もそれは願わないでしょう。
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〈バランスと牧師の役割〉
 両者をどのようなバランスで実行するか?の問題です。「礼拝学」と「宣教学」の視点は多分、対立するのでしょう。だからこそ、礼拝観や伝道方針が、教会の中で、一定語られ、話し合われ、共有されることが大切かと常々考えています。
 教職者観やリーダーシップのあり方は、様々です。しかし、個人的見解としては、専門職である牧師は、役員との検討をなどを経て、そうした理念を教会全体に、明確に示し、一定の理解を得て、共有と一致に導くことが役割の一つだと私は思っています。具体的には総会資料などで明文化して、全体で定期的に確認することでしょう。
 要は、信徒にとって、牧師やリーダーの考え、理念が、不明確だから、信徒は困惑し、問題が生じると思うのです。それ故に、牧師と信徒の行き違いや、誤解、牧師への不要なはずの不信感も生じるように感じています。