教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「ありがちな課題かも④~愛が動機、内容は真実」

〈両極端になりがちな現実〉
 聖書は、「愛をもって真実を語り」(エペソ4:15)と記しますが、あります。語る「内容」は「真実」で語る「動機」は「愛」。でも、不満や要望については、信徒から牧師への言葉については、この二つを両立させることは困難なようです。多分、牧師との関係において、聖書とは異なる儒教的前提や日本的偏見を持っているからでしょう。
 多くの信徒は、そのどちらかの極端に偏りがちです。愛なしに真実を語り、牧師を責めて苦しめても、よい結果は期待できません。愛がなければ、第一コリントの13章が記すように、正しい批判も課題の指摘も、うるさいだけ、何の役に立ちません。
 また、牧師を愛していながら、必要な真実を語らないことがあってはなりません。牧師のより一層の働きと結実を願うなら、愛をもって、「痛い事実」もお伝えしましょう。特に男性牧師には、「内容よりも言い方」かと、当事者として実感しています。
 愛を感じることができれば、素直に認めて改善する気になりますが、愛が感じられないと責められているとの意識になり、男性にありがちな自己防衛モードへ。結果として課題を認められず、関係を悪化されるだけで、為すべき改善に向かいません。
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〈両極端にならないために〉
 多くの信徒は牧師に言いたいことがあっても、我慢します。それが、「忍耐という名前の愛」であれば、プラスに作用するでしょう。しかし、それを超えるなら、要注意。心に怒りや苛立ちが生じたら、要注意信号。適切な言葉で伝えれば、行き違いや誤解は解消、牧師の見解や判断に納得や譲歩、牧師との関係も良好となる可能があるののに、言わないのです。
 そうすると、時には、事実ではないこと、誤解などに基づいて、牧師に対する怒りが蓄積。やがて、爆発するのですが、その時には「愛をもって真実を語る」ではなく「愛もなく、非事実に基づく怒りを語る」ことに。これは、関係破壊的コミュニケーションとなります。
 その意味でも、牧師の判断や見解に疑問を感じたら、決めつけをしないことです。怒りや不信感をため込む前に、素直な疑問を、牧師や牧師に近い方に尋ねることでしょう。
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〈牧師に対する美しい誤解?〉
 信徒が牧師に言うべきことさえ言おうとしない理由の一つは、「きっとお考えがあるから」というもの。今回の事例もその一つです。だから、納得できなくても、引き下がったのです。牧師は専門性が高く知識も経験も、通常は、信徒よりあるわけですから、何歩も先を見据えて、何段階も深く考えて、見解を持ち判断します。実際にそういうことが多いので、信徒の方は「牧師には、自分より深い考えがある可能性」は想定して、決めつけることは避けるのが賢明でしょう。
 一方で、それが「牧師に対する美しい誤解」である場合も。恥ずかしながら、私にも経験のあることですが、牧師が信徒より、十分考えていないことは、良くあります。特に、牧師個人が関心や問題意識がない分野や事側については、いくらでもあることです。
 「牧師の考え」が正解の場合もあれば、「きっとお考えがあるから」が美しい誤解の時もあります。だからこそ、遠慮せずに、でも謙遜に、愛を込めて真実を語って、牧師を助けて欲しいと、私自身牧師の一人として願います。
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〈まとめ〉
 その他、Noの聞けない牧師、話が通じない牧師、逆切れする牧師など、牧師個人の課題が、信徒との関係に断裂をもたらすこともあります。それら特殊な事例も扱うべきでしょうが、今回は、パス。
 まずは、牧師に対しても「愛をもって真実を語る」ことを、一度、検討してみてはどうでしょう?それが牧師の成長、牧師との信頼関係構築、さらには教会形成と神の業の前進につながると思っています。