教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「ありがちな課題かも①~信徒からの素直な声」

〈以前の投稿への応答〉
 先の投稿「ベテラン牧師の証し~尊敬の念と痛い問いかけ(上)」には、多くの方からの応答が。実は、一人のクリスチャン女性からいただいた個人的事例が、投稿した課題を考えるのにピッタリ。そこで、以下に当人のご許可を得て、一部編集して紹介。
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〈その文面〉
 今日のベテラン牧師の投稿を読むと、このような内容を分かち合えることをとてもありがたく思います。私は今、出席している礼拝のメッセージがとても難しく感じています。未信者をお連れした時は難しくわからないと言われました。この方は精神疾患があり、また、強い罪責感をもっており、教会に来たいという気持ちでなんとかやってきました。 でも、難しいし、 人がたくさんいるのが無理と言われ、もう行けないと断られました。
 でも、個人的な学び会なら、大丈夫かもしれないと思い、牧師に相談しましたが、「まずは礼拝に出席するのが基本」と言われてしまいました。私は気持ち的には納得できませんでしたが、 牧師には牧師の考え方があるので、それっきりです。いまは、YouTubeでも、わかりやすいメッセージは聞けるので、教会にお誘いするのはやめました。
 わかる人にわかるメッセージを語れば牧師はそれでいいのでしょうか? 障害の方は、はっきりと自分の先生のメッセージは難しいと伝えられましたが、私は言えません。 普通は言えないです。だから、このままだれもそれで仕方ないと思うしかないのでしょうか?
  普通の仕事なら、評価され、改善されるべきでしょうけど、牧師先生にものを申すのは、非常識だと思われるしかないんだと感じています。自分は教会のメンバーには相談できません。 「難しいと感じるあなたに問題がある」と言われそうだからです。
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〈何が起こっているのか?〉
 これは、信徒の側からの素直な声だと思います。皆さんは、この方の経験や事の経緯をどう感じるでしょうか?私は、この牧師には悪意や差別意識はなく、権威主義的でもなく、説教についても努力しているのだろうと想像します。
 それでも、結果的に弱さを持つ方を救いから遠ざけているのかもしれません。信徒からすれば、理不尽な葛藤や苦悩を経験することに。さらに、説教者として怠惰ではないかと不信感を持たせてしまっています。
 そして、一番の課題は牧師が、そうした現実や自身が見えないままで、課題を放置したまま、働きを継続していくことでしょう。つまり、結実に結び付きにくい労苦をしていくわけです。
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〈ありがちな事例として〉
 これは、牧師と信徒の間で、大なり小なり、起こりがちな課題。同時に、この課題はタブー視されがち。牧師と信徒の間で誤解と行き違いが起こっているのに、放置されていくケースも少なくありません。
 その結果、真摯な信徒が孤立し苦悶することも。熱心な信徒、誠実に仕える信徒が、徒労感を感じたり、諦め気分に至ることも。まずは、この課題は極めて普通との認識が、広く共有され、牧師と信徒が共に考えて行ければと願うのです。
 次回からは、「弱者への結果的排除」「牧師と信徒との関係」「牧師の説教向上努力」の三点について、普段思っていることについて、記します。基本的で平易な内容を記しますので、牧師と信徒の共有課題としてお考えいただければ、感謝。