教会形成、教会教育

教会形成、教会教育

「ありがちな課題かも⑦ ~説教の難さが意味すること」

〈「難しい」「わからない」が意味すること〉
 あくまで個人的見解ですが、礼拝説教は、理解可能な言葉で、心に届く表現で、様々なイメージをともなって語り掛けられるべきだと考えています。そのための最低限の自己研鑽や努力、は当然でしょう。
 未信者にとって、牧師の説教が難しいのは、一定、仕方ない面があります。しかし、信仰歴が一定ある信徒、標準的な教会員が、「牧師の説教が難しくてわからない」というのは、失礼ながら、会衆よりも説教者側に原因があるのだろうと予測するのです。
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〈説教観、会衆理解の課題〉
 たとえば聖書を正確に深く取り次ぐことだけに集中して、会衆理解を欠いている可能性があります。きっと「優れた説教の実践」が自己目的化され「会衆を活かし、養うこと」に優先しているのでしょう。
 これは、一面において優れているだけで、説教が実質上、成立していません。結果的には「自己満足」「作品発表会」に終始しているのでしょう。まさに、会衆適応性を欠いた説教の失敗の典型。第一コリント13章は「愛がなければうるさいだけ」と言いますが、説教も例外ではないのかも。説教者が会衆への愛や適応性を欠いた信念を持っていると、この課題を認められず、改善困難となるようです。
 会衆理解に欠けるのは、そもそも、信徒の現実を知り、理解に努める「愛」がないからでは?とも思います。信徒の日常を理解すれば、説教の内容も語る言葉も変わるでしょう。信徒への愛を欠いても、正確な取次ぎをすれば、御言葉と共に聖霊は、働きかけて会衆の中で実を結ぶとお考えなのかもしれません。私は、それを「聖霊におんぶに抱っこ」「説教者にあるまじき怠惰」だと思っています。
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〈聖書読者としての課題〉
 また、説教に限ったことではありませんが、相手に分かりやすく伝えられないのは、自分が、よくわかっていないからです。「難しくてわからない説教者」は、「説教者」である以前に「聖書読者」として不十分である可能性があります。
 物理学者や理科の先生の中には、小学生に、相対性理論を分かるように語ることができる方がいらっしゃいます。それは、相対性理論を深く理解しており、かつ、小学生の理解力を把握しているからです。両方の理解がある時に、分かりやすく伝えることができます。説教の課題はそれに似ているように感じます。
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〈日常的な言語活動の課題〉
 普段の話からして、「一文が長い」「話し言葉が文章になっていない」「論旨が不明確」「一貫性がなく分散する」「着地点がない」などの傾向がある牧師に、時々出会います。大抵は、それが説教にも反映しており、「難しくないのにわからない説教」となりがち。
 若手で親しい方の場合は、失礼ながら、そのことを指摘し、「普段の会話から、短く、明確に相手に伝わる話を心がけよう」とアドバイスしています。説教以前の普遍的な言語活動の次元で、「物事や見解を相手に分かるように伝えること」ができていないことが、根幹の問題にあるケースは少なくないように感じています。
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〈まとめ〉
 以上、「説教が難しい」「説教が分からない」について、説教者の側にある課題と思われる代表的なものを記してみました。このことを記したのは、以前紹介した一信徒の悲痛な声に応答してのことです。それを再度、掲載します。
「普通の仕事なら、評価され、改善されるべきでしょうけど、牧師先生にものを申すのは、非常識だと思われるしかないんだと感じています。自分は教会のメンバーには相談できません。 難しいと感じるあなたに問題があると言われそうだからです。」