信仰継承、宗教二世問題
信仰継承、宗教二世問題
- 「子どもを愛し忍耐し育てる教会へと導いた牧師の言葉」
- 「子どもの身にもなってみよう~騒ぐ子どもを注意する前に」
- 「妄想福音書と妄想パウロ書簡 ~子どもを叱らず、祝福の邪魔をせず、イエスを憤らせず、子どもに倣う」
- 「子は、礼拝する親の背中を見て育つ」
- 「信仰継承、何ではなくて、何なのか?」
- 「信仰継承の再検討①~親からの相続か?本人の出会いか?」
- 「信仰継承の再検討② ~自らを経由せず、邪魔せず、モデルに」
- 「信仰継承の再検討③~焦り、怖れ、義務感?動機の自問」
- 「信仰継承の再検討④ ~親のお手柄?子どものお手柄?」
- 「無関心なのに、囲い込み?~凧上げと伝書鳩のたとえ」
- 「『無関心なのに囲い込みはする』からの悔い改め」
- 「発明としての新語『宗教2世』①」
- 「発明としての新語『宗教2世』②」
- 「発明としての新語『宗教2世』③」
- 「発明としての新語『宗教2世』④」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』①~過去に目を閉ざさず」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』②~人権尊重と信仰継承」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』③~ありがちな二極化」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』④~愛と自由と責任」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』⑤~正解の押し付けでなく」」
「発明としての新語『宗教2世』④」
〈私にとっての『宗教二世』という言葉〉
昭和の時代は、信仰継承目的であれば、一定の暴力や子どもの人格の尊厳を傷つけるような言動が容認、時には推奨されていたと私は記憶します。特に戦後第二世代のクリスチャンは親から支配的暴力的指導を受けていたことをお聞きします。言うまでもなく、その根拠は聖書の言葉の字義通りの受け止めやそれに基づく教会の指導にあったわけです。
私は、21世紀に入った頃には、“Spiritual Abuse”(霊的虐待)という言葉を知っていました。ですから、保守的な教会にありがちなこうした傾向にぼんやりとした違和感を覚えていました。また、「霊的虐待って、カルトだけじゃないよな~」と、これまたぼんやりとした危惧を覚えていました。
ですから「宗教2世」という言葉の登場は、私にとっては大きなことでした。当初はその言葉から受ける印象の故に誤解もし、反発も覚えたのですが、今、その言葉は、私に抱いてきた和感と危惧を明確にしてくれています。自分だけではありません。その言葉は、実際に触れてきたある方々を示す名前となり、その苦しみを表現する言葉、また、その苦しみの理解を助ける言葉となっています。
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〈代表著書に福音派の事例〉
「だから知って欲しい宗教二世問題」(筑摩書房)と「みんなの宗教2世問題」(晶文社)は、この課題を多面的にかつ総合的に論じた代表的な著書と言えるでしょう。両書とも、正統的なキリスト教会内の事例として、福音派内のことが記されています。
前著の23章は「日本のクリスチャン2世」と題して、キリスト新聞の松谷信司氏が執筆。豊富な資料を用い、それらが示す事例や当事者たちの苦しみを紹介し、その奥にある問題を特定します。心を痛めずには読めない内容です。反発や反論はあるでしょうが、福音派など、保守的な信仰理解にあるクリスチャンにはぜひ、お読みいただきたいです。
後者の著書では、第一章「当事者たちのさまざまな声」で正統的とされるキリストの教会の事例が記されています。著者は31歳になる牧師の娘さんなのですが、文面からは、小規模な単立教会で、教会間の交わりは乏しく、極めて保守的な信仰理解と予想されます。心病むのも当然と思える事例なのですが、戦後の第二世代の方々からは、同様の扱いを信仰熱心な親から受けてきた昔話をお聞きします。
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〈信仰継承上の課題としても〉
さすがに近年はそうたことは、少なくなりましたが、それでも類似の事例は時に見聞きします。いつも残念に思うのですが、教会が人間の尊厳を大切にする文化を生み出し、それが日本社会に影響を与えることが好ましいのですが、現実は、その逆のようです。一般社会の成熟によってもたらされた子どもの人格の尊重が、教会に集う各自に影響を与えて、教会は「人権軽視・信仰絶対視体質」から、脱却を遂げてきたように感じています。
このシリーズを始めた動機の一つは「宗教2世」という新たな言葉が、従来の信仰継承の在り方を見直す契機とすることです。「宗教2世」は確かに人権問題でしょう。しかし、教会という現場においては、「信仰継承」の中で起こることです。
ですから、来年、1月4日あたりから始めるこのシリーズの続編は、「宗教2世を信仰継承に活かす」という趣旨で、記してゆく予定です。具体的で、実用的で、前向きな内容になればと願っています。来年も続いてご愛読いただきますようお願いします。