信仰継承、宗教二世問題

信仰継承、宗教二世問題

「発明としての新語『宗教2世』③」

〈可視化される前までは〉
 前回紹介した信田さんの指摘通り。可視化されるのには、名前が必要で、名前がないとき、それは存在しないとされます。ですから、正統的なキリスト教会内には、「親の信仰によって、人権侵害を受け、健全な成長を妨げられて育ってきた子どもたち」の存在は、あまり認識されてきませんでした。
 ただ、「クリスチャンホームで育った子どもたちが、心を病んだり、社会性に欠けていたり、人格的な課題を抱えていることが多そうだ」という事実認識はあったのではないでしょうか。「信仰は人間を健全に育て、祝福に歩ませるはずなのになぜこうなるの?」という素朴な疑問を抱いてきたのでは?その一方で、「そこを突っ込むとヤバい」「原因追及はタブー」「原因特定すると傷つく人が」というような怖れもあったのではないでしょうか。
 私は、「宗教2世」という言葉の登場と普及がそうした「教会タブー」を破り、「聖域なき信仰継承改革」につながればと願っています。信仰継承を名目として、親が子どもを支配し、健やかな成長を妨げてきた面がなかったかとの検証。そのことを悔い改める必要があるのではとの問いかけ。信仰継承が強く求められてきた背後には、教会存続や教勢拡大という本来とは異なる動機があったのではないかとの自問。その上で、健全な信仰継承のあり様を考え、実行して行ければ。そんなことを期待しています。
〈当人が自らを名付ける言葉として〉
 何より、大きなことは、ACのように、「宗教2世」を自分のことを表す言葉として歓迎し、自分を名付ける言葉が見つかったとするクリスチャンたちが登場することでしょう。「普通のキリスト教会に集う家庭の子どもであった自分が、親の信仰によって深く傷を受け、人格を否定され、生きづらさを抱えて生きざるを得なくなった」との自覚を持ち始める人々の登場です。
 言い換えれば、「宗教2世」との名前によって、自分がアイデンティファイされるのです。病気に例えるなら、病名不明の苦しみから、病名が確定しての苦しみに転ずるわけです。病名が分かれば、苦しみが大きく軽減することがあります。そのことが宗教2世被害者に起こることは、希望の始まりとも言えるでしょう。
〈親でなく自分が悪いとするなら〉
 親の意向に沿って真面目クリスチャンとして歩みながら、生きづらさを持つ、心の病に倒れる、社会不適応となる・・・そうしたことがあります。もし、その原因が宗教2世問題にあったとしても、当人は、「自分が悪い」になりがち。親が悪いと思っても、そう思う自分が悪いと思いがち。
 こうした「事実誤認」や「事実に基づかない誤った罪悪感」を抱くなら、脱出の道がいよいよ見えなくなります。いつまでも、親が悪いという事実に立って、解決を考えられないので、自分一人では、どうしようもありません。さらに、周囲から、親を愛せ、赦せと言われたら、心病んだり、破綻したりしてもおかしくないでしょう。これはあまりに残酷、悲惨です。
〈選択肢の変化〉
 しかし、「自分は、宗教2世クリスチャン」とのアイデンティティーを持つなら、直接的には「親が悪い」という事実に到達します。「親による子どもに対する霊的虐待」という事実が明確になります。
 そうなれば、選択肢は変化します。一つは、親を離れて、神様に結び付き、健全なクリスチャンへと向かう道があります。もう一つは、親の信仰自体を否定し、自分が押し付けられてきたと感じる信仰自体を放棄することです。どちらであれ、親の支配を脱し、主体的に判断しているわけです。言い換えれば、「信教の自由の行使」に至るわけです。
〈宗教2世は力ある解放の言葉〉
 「宗教2世」という言葉は、決して心地よい言葉ではありません。また、話し手と聴き手の両方に、正しい意味と定義がないままで使うと誤解を生みやすい言葉です。無責任なレッテル貼りに使ってはならないでしょう。その言葉を言われたくない当事者もいることでしょう。安易に他者に対して用いることは避けるべき言葉だと思っています。
 しかし、被害者当人には、それは解放の言葉にもなりえるのです。また、私たちが、身近な被害者を理解する有効な言葉にもなります。時と場合によっては、愛と配慮をもって用いるなら、被害者を闇の支配から解き放つ解放の言葉にもなりえるのです。宗教2世は、当事者にとってはそこまで「力ある言葉」だと思っています。