信仰継承、宗教二世問題

信仰継承、宗教二世問題

「無関心なのに、囲い込み?~凧上げと伝書鳩のたとえ」

 先週まで、何度か、河村従彦先生著「ボクはこんなふうにして恵みを知った」(いのちのことば社、価格1400円+税)を絶賛し、お勧めしてきました。
 敬愛するM牧師が、どうも、一読されたようで、FBの投稿に感想や応答を記しておられます。そこには、「次世代を信仰の面から囲い込もうとして、自立を認めない教会やキリスト者の姿が問題として書かれていたように思います。」との文言。
 
 さらには、こんなご指摘も「次世代がキリスト者になることに無関心なことと、次世代を信仰的に取り込もうとする姿勢とは、互いに反対のように見えて、実は根っこは同じかも知れません。」
 
 教会が、次世代の成長や自立に無関心であることと、その一方で信仰的囲い込みをしようとすることの両者が同じルーツから生じているとの指摘は、まさにその通りなのでは?次世代を本当に愛し、その自立を願うなら、囲い込みせず、その主体性に任せて手放すでしょう。逆に言えば、主体的に飛び立つことを恐れ囲い込もうと無意識に願っているから、自立に向けて育てなくなるのでしょう。言い換えれば、「愛ゆえの自由」でなく「欲ゆえの支配」となっているのかも。
 
 子育てについて、こんなたとえを聞いたことがあります。それは「凧上げと伝書鳩のたとえ」。親が、子どもを凧のように糸で自分に結び付けて、コントロールし続けると、やがて糸が切れて凧は、飛んで行き二度と戻ってきません。しかし、伝書鳩のように育てて、自分を離れさせ、自由に飛び立たせるなら、やがて鳩は親の元に返ってきます。
 
 クリスチャンホーム子弟と親や教会の上の世代の関係も同じように思えてなりません。一度離れたら、二度と帰ってこない接し方もあれば、一時期離れたとしても、帰ってくると期待できる接し方もあるのでしょう。