信仰継承、宗教二世問題
信仰継承、宗教二世問題
- 「子どもを愛し忍耐し育てる教会へと導いた牧師の言葉」
- 「子どもの身にもなってみよう~騒ぐ子どもを注意する前に」
- 「妄想福音書と妄想パウロ書簡 ~子どもを叱らず、祝福の邪魔をせず、イエスを憤らせず、子どもに倣う」
- 「子は、礼拝する親の背中を見て育つ」
- 「信仰継承、何ではなくて、何なのか?」
- 「信仰継承の再検討①~親からの相続か?本人の出会いか?」
- 「信仰継承の再検討② ~自らを経由せず、邪魔せず、モデルに」
- 「信仰継承の再検討③~焦り、怖れ、義務感?動機の自問」
- 「信仰継承の再検討④ ~親のお手柄?子どものお手柄?」
- 「無関心なのに、囲い込み?~凧上げと伝書鳩のたとえ」
- 「『無関心なのに囲い込みはする』からの悔い改め」
- 「発明としての新語『宗教2世』①」
- 「発明としての新語『宗教2世』②」
- 「発明としての新語『宗教2世』③」
- 「発明としての新語『宗教2世』④」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』①~過去に目を閉ざさず」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』②~人権尊重と信仰継承」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』③~ありがちな二極化」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』④~愛と自由と責任」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』⑤~正解の押し付けでなく」」
「子は、礼拝する親の背中を見て育つ」
この主日は、「コロナ禍を歩む礼拝者の成熟」と題して阿佐ヶ谷の某教会で礼拝メッセージ。その導入部の冒頭を以下に転載します。
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「昨年の秋に知人の韓国人宣教師からお聞きした韓国でのお話です。ある教会の長老が、自宅で、オンライン礼拝をしていたのですが、その礼拝態度を長老の娘さんが注意します。しかし、娘さんが何度注意しても、長老の礼拝態度が改まることはありませんでした。
我慢の限界に達した娘さんは、ついにある日、父親が礼拝する姿を動画で撮影して、教会の牧師に送り付けたそうです。そして、その動画に移っていたのは、礼拝の最初から最後まで、ソファーに寝転んで、頬杖をついて、祈りと賛美もせず、退屈そうにモニターを眺める父親の姿でした。
長老の娘さん、グッドジョブです。でも、よく考えてみると悲しい話ですね。こんな父をもった娘さんを思うと悲しいです。こんな人物が長老であることも悲しいです。そして、何よりこんな態度での礼拝をお受けになる神様のお気持ちを想像すると悲しいです。
さて、オンライン礼拝を経験された皆さんは、どうでしょう。誰かに礼拝態度を動画撮影され、牧師に送られても大丈夫でしょうか?」
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以上が導入部の冒頭です。実は日本でも同様の事例は起きています。子どもたちは、正直です。忖度も配慮もありません。オンライン礼拝をささげる親の姿を、教会のお友達、教会学校教師、牧師などに「密告」しています。
それは「うちのママは皿洗いしながら、礼拝見ていたよ」「おやじが、パジャマのまま寝転がって説教聞いてたぞ」など。オンライン礼拝者は神様と子どもを侮ってはなりません。
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礼拝は「神と神の民との交わり」です。神の前に出ていないオンライン礼拝は礼拝ではなく、「礼拝中継の鑑賞」。礼拝のための配信は「礼拝中継というコンテンツ」に。これは親が子に礼拝を軽視し、神様を侮ることを、身をもって示している「逆信仰継承」あるいは「信仰分断行為」。
一方で、オンライン礼拝だからこそ、通常の礼拝以上に、神様の前に真摯な姿勢で、礼拝をささげるなら、その姿は、神を尊び、礼拝を大切にすることを、どんな言葉にも勝る説得力をもって、子どもに伝えるでしょう。
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さらに言えば、世界には、迫害の中で、文字通り、いのちがけで礼拝をささげているクリスチャンがいることも覚えたいもの。世界中には、神が人となり、命を捨て与えてくださった礼拝の恵みを、いのちをかけて守る神の民が存在する事実を心に刻みたいもの。
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「子は親の背中を見て育つ」と言いますが、「クリスチャンホームの子は、礼拝する親の背中を見て育つ」のでしょう。