信仰継承、宗教二世問題

信仰継承、宗教二世問題

「子どもの身にもなってみよう~騒ぐ子どもを注意する前に」

〈イメージしてみて〉
イメージしてみてください。
あなたが主日礼拝に行くたびに
毎週、必ず、こう言われ続けます
しかも、一人ではなく、何人もの方々から
「礼拝中に居眠りしないでね」
「説教中に週報読んだりしないように」
「礼拝には遅刻をしないでください」
「礼拝姿勢で求道者や子どもたちを躓かせないでほしい」
もし、毎週、何人もの方からこう言われ続けたら
あなたは、その教会の礼拝に集い続けるでしょうか?
でも、こうした思いをしている礼拝者がいることも
覚えて欲しい。それは「小さな礼拝者」
〈ある男の子の言葉〉
先日、ある牧師とのお交わりの中
教会に集う一人の男の子の言葉を知った
「教会の大人たちは、僕の顔を見ると
『静かにしてね』しか言わないんだよ」
この子にかけられる大人たちからの言葉は、
「よく来たね」「一緒に礼拝できてうれしいよ」
などの歓迎や励ましの言葉ではない
快適な礼拝を確保するための注意と指導ばかり
礼拝中に騒ぐ子どもを注意してもいいだろう
でも、その前に考えて欲しいことがある
それは大人である自分の礼拝姿勢
自分のことを棚に上げて子どもに言うか?
そして、自分の以外の大人たちの礼拝姿勢
大人ができていないことを子どもに要求するか?
居眠りしても、週報読んでも、遅刻しても
誰からも注意されず、改まらない一部の大人たち
その礼拝姿勢によって求道者や子どもたちを躓かせても
自覚も悔い改めもない一部の大人たち
〈考えてほしいこと〉
その子は、こう思うかもしれない
「大人たちはいいよな~」
「居眠りしても、週報読んでも、遅刻しても
誰からも注意されないんだから!」
「僕なんか、毎週、多くの大人から注意ばかり」
「大人の人にもちゃんと注意してよ」
 
そこで、考えて欲しいことがあります
この子は、早く大人の礼拝者になりたいと願うでしょうか?
それとも、大人になる前に教会からいなくなるでしょうか?
私が尊敬する礼拝学の先生は、
子どもの礼拝参加についてこんな皮肉を言った
「静かなことしか、とりえのない礼拝なんて・・・」
静かになった頃には子どもが皆無なのは、さらなる皮肉
〈意識改革はできる!〉
実はこの男の子の話は10年前のこと
その牧師は就任後に意識改革に努めたそうだ
今では、教会の年配者はこう言っているのだとか
「教会で子どもの声がするっていいわね」
「教会の大人たちは、僕の顔を見ると
『静かにしてね』しか言わないんだ」
こう言われる子どもの身にもなってみよう
子どもを注意する前に自らを省みよう
子どもを注意するなら、先に大人を注意しよう
大人の子どもへの接し方が教会の将来を決めるのだから