信仰継承、宗教二世問題

信仰継承、宗教二世問題

「信仰継承の再検討② ~自らを経由せず、邪魔せず、モデルに」

昨日の投稿にはいくつかコメントが
どれも真実で本質を示していた
信仰は親からの継承よりも
当人自身の神との出会い
まずは、親自らを経由させないこと
親を経由させての信仰ではなくて
媒介のない当人と神との直接的出会い
親はそれをサポートしたいもの
それは思春期以降に特に大切
親を経由した信仰継承などは
ウザイ、むかつく、ダルいの三拍子
親が引くことが神との出会いを支援
次に、親がお邪魔をしないこと
イエス様に子をお連れすること
それが親としての信仰継承
それを、引き離してどうすんの?
教会生活と家庭生活の極端な乖離
過ちを認めず、悔い改もめず
子どもや家族にも謝罪もせず
家では、愚痴と不満と悪口ばかり
度々例示するのは創世記のヤコブ
イサクとリベカは罪のために毒親に
ヤコブと神との人格的出会いを妨害
だから、ヤコブは家族から離脱
ベテルの夜に神に出会う
夢の中で梯子を降ろして
神の側から出会ってくださった
これは、現代日本も同じだろう
最後には、親がモデルを示すこと
いつも喜び、絶えず祈り
全てのことに感謝する親
これこそ、最高のモデル
いいや、それが十分できなことを
認め、悔い改めて歩み直そうとする
神への真実なその姿勢こそが
むしろ、モデルなのかもしれない
テモテの偽りのない信仰は
祖母と母にも宿っていたもの
しかし継承や霊的遺伝ではない
母親が信仰のモデルだったのだろう
テモテは偽りのない信仰を
母親から継承したのではななく
共に生活する中でモデルに触れ
その影響を受けたのだと想像する
親は自らを信仰の経由地とせず
子どもと神との出会いを邪魔せず、
子どもにとってのモデルになること
それが、聖書が示す信仰継承かと
「信仰継承」との言葉のイメージ
それに引きずられずに、考えたい
聖書に立ち返り、過去の失敗と
子ども自身に向き合って見直したい