信仰継承、宗教二世問題
信仰継承、宗教二世問題
- 「子どもを愛し忍耐し育てる教会へと導いた牧師の言葉」
- 「子どもの身にもなってみよう~騒ぐ子どもを注意する前に」
- 「妄想福音書と妄想パウロ書簡 ~子どもを叱らず、祝福の邪魔をせず、イエスを憤らせず、子どもに倣う」
- 「子は、礼拝する親の背中を見て育つ」
- 「信仰継承、何ではなくて、何なのか?」
- 「信仰継承の再検討①~親からの相続か?本人の出会いか?」
- 「信仰継承の再検討② ~自らを経由せず、邪魔せず、モデルに」
- 「信仰継承の再検討③~焦り、怖れ、義務感?動機の自問」
- 「信仰継承の再検討④ ~親のお手柄?子どものお手柄?」
- 「無関心なのに、囲い込み?~凧上げと伝書鳩のたとえ」
- 「『無関心なのに囲い込みはする』からの悔い改め」
- 「発明としての新語『宗教2世』①」
- 「発明としての新語『宗教2世』②」
- 「発明としての新語『宗教2世』③」
- 「発明としての新語『宗教2世』④」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』①~過去に目を閉ざさず」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』②~人権尊重と信仰継承」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』③~ありがちな二極化」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』④~愛と自由と責任」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』⑤~正解の押し付けでなく」」
「信仰継承に活かす『宗教2世問題』④~愛と自由と責任」
〈命令すれども強制しない神様〉
信仰継承は子どもの永遠のいのちに関わることでしょうが、だからと言って「強制」が許されるとすると、そこに暴力、脅しなどが生まれ、宗教2世問題に。そこで、考えたいのが「強制の是非」。
私は旧約聖書を読むと神様という方は「命令すれども、強制せず」だなあと思います。言い換えれば「命令しながらも、従わない自由を認める方」。創世記2章の禁断の木の実はその代表かと。アダムと愛の交わりにあった神様は、アダムが主体的に従うことを願われたのでしょう。事前に従わない方の選択結果を告げた上で、取って食べないよう命じています。
申命記30章では、神様はその民の前に、いのちと死という二つの選択肢を置き、それぞれの選択結果である祝福と呪いも提示。その上で命じます。「あなたはいのちを選びなさい。」と。つまり、命令しながらも、従わない自由を認めているわけです。
ヨシュア記24章でも、ヨシュアは、神様がどんなにか民を愛してこられたかを語った後に、主なる神様と偶像のどちらに仕えるか選択の自由を与え、その選択の結果責任を語っています。
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〈愛と自由と責任はセット〉
いずれも、神様の愛が大前提です。神様は、愛するが故に、主体的に従い、祝福されることを願われます。そこで、神様は「従う自由」と「従わない自由」の両者を提示し、その選択結果も予告し、結果責任を求められます。
そうです。「愛は強制しない」のです。祝福を伴う命令をしながらも、それに「従わない自由」を神様はあえて提示されます。神様の愛は主体的な応答を求めます。その応答の結果責任は、応答する側が負うのです。このことは、人間が「神様のロボット」ではなく、「神様にある主体性存在」であることを示していると私は考えています。
聖書が記す神様にあっては「愛と自由と責任はセット」と言えるのでは?だとしたら、神様から子どもを託された親も、神様から愛された愛で、子どもを愛するべきではないでしょうか。特に、子どもが親を心理的に離れていく思春期は、強制には限界があります。また、子どもが反発できないレベルの強制をすると、子どもに宗教2世的課題が生じかねません。
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〈どこからが強制かは微妙だけど〉
しかし、「信じない自由」を認めることは、教会に行きたくないとの子どもの訴えを、即決でOKすることではないでしょう。子どもの心情や思いの理解のためにも対話をすべきでしょう。私は、結果より過程を重視したいです。対話という過程が、結果に左右されないよい親子関係を保つと考えるからです。その上で、最終的には本人の意志を尊重すべきかと考えています。
このあたりを考えると、どこからが「強制」なのかは、微妙。子どもの性格や親子関係次第で、一概に基準を示すことは困難でしょう。それでも、参考になればと思い、一例を挙げてみます。
あくまで私の感覚ですが、例えば、「親がうるさいから嫌々、教会学校の中高科に来ている」というのは、多分、健全レベルだと思います。しかし、「魚の死んだような眼をして中高科に集っている子ども」は危険信号を発している受け止めるべきでしょう。
前者は親を離れていく自我もそのための反抗心もあります。最終的には「信じない自由を行使」する可能性があります。しかし、後者は自我も反抗心もなく、「信じない自由の行使」が奪われており、親の支配の下で、強制に苦しんでいる可能性が高いでしょう。
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〈矛盾しているようで聖書的?〉
「命令しながら強制しない神様」「最終的には信じない自由を認める信仰継承」。これらは一見、矛盾しているように思えるでしょう。
でも、それが、神様の愛の現れであり、親が子どもに注ぐべき愛の姿であると思うのです。信仰継承においての「自由なき強制でなく自由を認めての導き」。これは、矛盾しているようで、聖書的だと私は考えているのですが、どうでしょう?