信仰継承、宗教二世問題
信仰継承、宗教二世問題
- 「子どもを愛し忍耐し育てる教会へと導いた牧師の言葉」
- 「子どもの身にもなってみよう~騒ぐ子どもを注意する前に」
- 「妄想福音書と妄想パウロ書簡 ~子どもを叱らず、祝福の邪魔をせず、イエスを憤らせず、子どもに倣う」
- 「子は、礼拝する親の背中を見て育つ」
- 「信仰継承、何ではなくて、何なのか?」
- 「信仰継承の再検討①~親からの相続か?本人の出会いか?」
- 「信仰継承の再検討② ~自らを経由せず、邪魔せず、モデルに」
- 「信仰継承の再検討③~焦り、怖れ、義務感?動機の自問」
- 「信仰継承の再検討④ ~親のお手柄?子どものお手柄?」
- 「無関心なのに、囲い込み?~凧上げと伝書鳩のたとえ」
- 「『無関心なのに囲い込みはする』からの悔い改め」
- 「発明としての新語『宗教2世』①」
- 「発明としての新語『宗教2世』②」
- 「発明としての新語『宗教2世』③」
- 「発明としての新語『宗教2世』④」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』①~過去に目を閉ざさず」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』②~人権尊重と信仰継承」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』③~ありがちな二極化」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』④~愛と自由と責任」
- 「信仰継承に活かす『宗教2世問題』⑤~正解の押し付けでなく」」
「信仰継承に活かす『宗教2世問題』②~人権尊重と信仰継承」
〈見直しの指標として〉
宗教2世問題を信仰継承の見直しに活かし、本来の信仰継承に向かおうというのが、このシリーズの趣旨。その見直しの指針や基準となる資料として、昨年10月に日本基督教団カルト問題連絡会が作成したものをご紹介。「いわゆる『宗教二世』問題を作らないための約束と宣言」と題した文書です。
この問題を人権問題として位置付けながら、具体的な課題を示し、なおかつ全体を網羅しています。その上で、信仰継承の見直しをさせ、健全な在り方に私たちを導く内容かと思います。私がこれを高く評価するのは「いわゆる『宗教二世問題』を作らないため」とタイトルをつけながら、子どもの人権尊重で終始していないことです。
よく読むと最終的には、あるべき本来の信仰継承に私たちを向けさせています。「問題をつくらないでどうするか?」は、直接的に書かれていませんが、それは、この約束と宣言に同意した者が、考え、模索し、実現していくべきものでしょう。
こうした文書を推薦すると、一部の読者からは、「人権より永遠のいのち」「子どもの尊厳より救いが優先」「世の基準より聖書の基準」などの声が聞こえてきそうです。そこで二つの事を記したいと思います。
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〈人権の定義〉
まず、「人権」の定義です。キリスト教会で「人権」という場合、一般とは、定義が異なります。多くの場合それは、神様を除外した単なる「自分の願う自分らしさに生きる権利」「幸福追求権」「自己欲求の最大限の実現」ではありません。
それは、例えば、「神のかたちとして創造された存在としての尊厳」「神が願う自分らしさに生きる権利」「すべての人が無条件に持つ神によって与えられた人絶対的尊厳」などと表現できるでしょう。「福音より人権重視」と安易なレッテル貼りをすることなく、発信者の語る「人権」がどういう意味、定義かは常に考えたいものです。
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〈人権尊重と信仰継承の関係〉
二つ目は人権尊重と信仰継承の関係性です。上のような人権の定義であれば、「人権尊重」は「福音」に反することではなく、また、どちらかを優先することではなく、むしろ、同時進行的で、一致することではないでしょうか。「人権尊重」は、必ずしも「この世の価値観」ではなく、「聖書の価値観」です。
ですから、「信仰継承か子どもの人格尊重か?」の二者択一ではないのです。「両者のどちらを優先するか?」という優先順位でもないのです。両者は本来、一体のものだと私は思います。
エペソ6:4は「父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。」と命じます。これは、子どもを人格として認めない文化から救い出された父親たちに、人格尊重を訴えているようです。当時の異邦人の父親たちの子どもに対する接し方は、残酷か無関心かの両極端であったそうです。
このエペソ6:4は、現代的に言えば、「子どもの人格の尊重」「子どもの発達段階に応じた配慮の必要性」でしょう。「子どもを愛する」とは、本来「子どもの人格を尊重すること」と「子どもの救いを願い労すること」の両者を一体とするものでしょう。
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〈日本における歴史的経緯〉
日本においては、多分、戦後や昭和時代の教会の「伝道至上傾向」が家庭における親の「信仰継承至上主義」となり、「人格として子どもを愛すること」と「信仰継承」を分離させ、後者を前者に優先させたのでしょう。
そして、不幸にも、子どもによって家庭が、「人格的な交わり」から、「信仰継承機関」に変質したケースもあるように感じています。そうなれば、子どもは、人格的に健全に育つことなく信仰を持つか、自分を守るために親と信仰の両者から離れるかのどちらかになるでしょう。
時代が変わり、程度問題においては、以前のようではなくなりました。しかし、このことは信仰者家庭には普遍的な課題であり、今も続く問題であり、健全な信仰継承の在り方を破綻させています。時に見聞きする青年や学生たちからの呻きや叫びから、そのことを実感しています。
というわけで、信仰継承の見直しや自己評価のために、「いわゆる『宗教二世』問題を作らないための約束と宣言」を用いられることをお勧めします。