信仰継承、宗教二世問題

信仰継承、宗教二世問題

「信仰継承に活かす『宗教2世問題』①~過去に目を閉ざさず」

〈過去に目を閉ざさずに〉
 「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」とはワイツゼッカー大統領の演説内での名言。多くのクリスチャンがこの言葉に共感し、賞賛もします。それならば、親としての自らの過去についても目を閉ざさしてはならないでしょう。信仰継承の結果ではなく、プロセスについて、向き合う時に、現在が見えてくるように思います。
 「昔はよかった」「若い人がいない」と現在を嘆いているだけで、その「現在をもたらした過去」について、特に信仰継承の在り方に向き合わなければ、現在については、盲目で実は何も見えておらず、さらに未来を失いかねないでしょう。現在を正しく認識し、聖書的で健全な信仰継承をしていくために、過去に向き合う必要を覚えています。
〈人権問題としてだけでなく〉
 宗教2世問題は、一般的に人権問題として位置付けられ、論じられます。親の信仰によって子どもの人格が深く傷つけられたり、否定されたりするのですから、確かに、そこが問題の中心でしょう。一般の書物では、その人権侵害が問題視され、それを「しないこと」が訴えられます。もちろん、それは大切。
 一方でこの問題は、親から子への信仰継承の中で起こってきたものです。ですから、キリスト教会にあっては「しないこと」を守るまでで終わることではありません。過去や現在を検証し、「しない」決断をした上で、次は「すること」を考え、健全な信仰継承の在り方を目指していく必要があります。「しない」決断の向こうにある「すること」の模索こそ、大切。
〈健全な信仰継承に向けて〉
 「人を傷つけないこと」は大切ですが、「人を愛し大切にすることは」はそれに勝ります。同じように「信仰継承のプロセスで人権侵害をしないこと」は大切ですが「子どもを愛し、人格を尊重して、信仰継承をする」ことはそれに勝ります。それが、現代日本のキリスト教会にあって、どのような指針や具体的言動となるのかを考え、実行することを神様は願っておられるでしょう。
 「宗教2世問題」というと、課題の指摘や人権尊重の訴えが前面に出て、そればかりが目立ちます。キリスト教会外の発信の多くは、そのようですし、それで十分意義があるでしょう。しかし、キリスト教会内でしっかり考察をしている方々の発信を読むと、そこから先を記さなくても、示しているように私には読めます。
 宗教2世問題が私たちに向き合わせてくれるのは、未来の信仰継承に向けての過去と現在の検証なのです。そして、そこから未来がかわるのです。
〈今日から新シリーズ〉
 そこで、今日からの発信は「ではどうするか?」「~しないで~しましょう」を記してゆきます。今回からは「信仰継承に活かす『宗教2世問題』」とタイトルも変えてシリーズで記します。5回以上の連載になりそうですが、お付き合いをいただければ、感謝。