信仰継承、宗教二世問題

信仰継承、宗教二世問題

「信仰継承の再検討③~焦り、怖れ、義務感?動機の自問」

「親を経由しない信仰継承」との趣旨での投稿に応答して、一人の母親が、個人的に連絡をくださいました。まずは、それを、当人の許可をいただき以下に転載します。
「なんとしても子供に信仰継承できなければ、自分自身がクリスチャンとして失格者になってしまうという焦り恐れと義務感とで「何故わからない。なぜ信じない?なぜ決心しない」と追い詰められ迫られる中で、思春期の子供たちが本当に良い意味で神様と向き合う事が出来るのか、親のヒステリックな態度が、子供の神様を見上げる視線を却って遮っているのではないかと思わされました」
 これは、リアルな御指摘だと思うのです。当初の動機は、純粋に子どもの救いを願っていたのかもしれません。しかし、思春期に入れば、洗礼か教会を離れるかという「当面の決着」が見えてきます。
 そうなると、「子どもの救い」よりも、「子どもを救いに導いた親としての自分」が大切になっていくことも。信仰継承そのものより、焦り、怖れ、義務感の解消克服が目的にすり替わることも。
 その根底にあるのは、「子どもが信仰をもってこそ、親として合格」との間違った評価基準。それを負って苦しむ親は少なくないのでは?いいえ、誰かが負わせたのか?教会の雰囲気がそう思わせたのか?それでは、子どもの幸せより、自分が良い子の親になって評価を得たい親たちと大差はないでしょう。
 そもそも、子どもが信仰継承しなければ、親として失敗だと言うなら、救いは恵みではなくなってしまいます。完全な人の業になってしまいます。
 また、焦燥感や怖れや義務感に由来する親のヒステリックな態度は、思春期の子どもの眼にはどう映るでしょう。親が本来の動機を失い逸脱していることを、思春期の子どもたちは見抜かないでしょうか?まさに、それは、子どもが神様につながるのを邪魔することに。
 「目的」だけでなく「動機」でしょう。「結果」よりも「プロセス」でしょう。人は結果を見て、親を評価しがちです。しかし、神様は親の動機とプロセスをご覧になり、評価されます。親自らが「人の目に生きるか、神の目に生きるか」が問われますし、多くの場合、子どもは親がどちらであるかを見抜いていることでしょう。
 信仰継承に葛藤を覚える方は、少し立ち止まってみては。そして、自らの内側に、焦燥感、怖れ、義務感がないか、それが子どもへの愛に優先していないか検証しましょう。信仰継承の再検討として、今回は、その動機を自問されることをお勧めします。