礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「礼拝行為を示す言語表現を考えてみた!」

 今朝は、予定されていた礼拝奉仕がコロナで中止となり、所属教会での礼拝。自宅にてオンライン礼拝でした。いつもは「今朝は所属教会で礼拝をささげました」と記しています。私は通常、礼拝行為を示す動詞には「ささげる」を使います。でも、それ以外にも礼拝行為を示す言語表現はあります。
 そこで「礼拝行為を示す言語表現を考えてみた!」
(1)「礼拝に参加する」
 これは、あまり聞きませんが、礼拝者意識より参加者意識が優先しているようで、どうかなあと思っています。「参加者」でなく、「礼拝者」ですから。礼拝者に至っていない未信者、求道者の方なら、適切なのでしょうが、クリスチャンの礼拝者が「参加する」を使うのは、考えものでしょう。
(2)「礼拝を守る」
 これは、日本ではオーソドックス。私は「礼拝は守るものではなく、ささげるもの」との考え。「守る」はどうしても外的形式を満たし、宗教的義務を果たすような意識が働きやすいので、避けたいと思っています。
 でも、まさに「礼拝を守る」が、「礼拝をささげる」以上に、積極的で、献身的な場合があります。以前、日本では「礼拝厳守」だが、韓国では「礼拝死守」だと聞いたことがあります。背景には、過酷な迫害の歴史もあるだろうと想像しました。
 日本でも家族の迫害、地域のプレッシャーなどがあるなら、まさに「礼拝を守る」は、真実な礼拝にふさわしい言語表現でしょう。
(3)「礼拝の恵みにあずかる」
 私自身はあまり使用しない表現です。でも、これは聖書的には大正解だと思います。礼拝をささげられることが恵みで、大感謝。礼拝の中、神様との交わりの中でいただく恵みもあるのですから。そもそも礼拝は、神様からの一方的恩寵としての呼びかけへに応答してささげるもの。恵みなくして礼拝なしですから。
 私が使用しないのは、「ささげる」という人間側の主体性に重きを置いているから。これは、逆に神様の一方的に恵みにあずかるという礼拝の本質を見失っているのかも。自分はバランスが悪く、神様の恩寵と人間の応答の両面を大切にすべきかと反省。
(4)「神様を礼拝をする」
 あまり使われないですが、「神様を礼拝しました」と言えたら、素晴らしいでしょう。時に礼拝者の意識は、神様からずれて、説教者や奉仕者や自分自身の思いへと向かがち。礼拝の対象者を忘れて、礼拝をささげかねない私たちです。
 だからこそ、「私は今日、神様を礼拝しました」と言い切れたら、最高ではないでしょうか?
 ヨハネ4章の表現を使うなら、「今朝は、霊とまことをもって、神様を礼拝しました」と言いたいもの。
 ローマ12章1節の表現を借りるなら、「今朝は、礼拝の中、私のからだを聖なる生きたささげものとして、献げました」と言える礼拝者でありたいです。
 読者の皆様は、午前中の自分をどう表現されるのでしょう。
「礼拝をささげました」
「礼拝に参加しました」
「礼拝を守りました」
「礼拝の恵みにあずかりました」
「神様を礼拝しました」
 自分ならどれなんだろう?
 主日礼拝後の今、そんなことを思っています。