礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「礼拝司会者の話すスピードについて考えてみた」

〈礼拝司会者はもっとゆっくり?〉
 以前、ある教会でのこと。礼拝前に司会者が前に立ちます。そして、事前に短く告知。それは、先に持たれた信徒集会で出された礼拝司会者への要望。高齢者と子どもに配慮して、司会者の話し方をもう少し遅くとの要望があったこと、特に、使徒信条と主の祈りは、心を込めてささげるため、司会者にはもっとゆっくり話して欲しいとのこと。これを受けて、役員会で検討し今回からそのようにするとの告知でした。
 教会役員である司会者は、その要望に沿って、司会をされました。礼拝終了後、その役員は自己評価を伝えてくれました。「ゆっくり話したために、礼拝がだらけてしまったのではないかと感じる」とのこと。
 私も彼の努力を感謝しながら、正直に、「そうした印象を与えていると思う」と返答。そして、私なりのアドバイスをさせていただきました。それは「それ程、ゆっくり話さなくても、間をとれば、よいのでは?文章や意味の切れ目で、間を意識すれば、多分、それで、ダラダラ感はなくなるでしょう」
〈さらに考えたこと〉
 帰宅してさらに考えました。会衆が早すぎると思う要因は、「言葉の消化不良」だと思うのです。音声は耳に届いても、脳がその意味を把握し消化する速度が追い付かないでしょう。だとすれば、大切なのは「消化するための時間の確保」。そう、大切なのは、「話すスピード」よりも「間の有無」。
 ただ、ゆっくり話すだけだと、礼拝は冗漫になりがち。礼拝者の思いや意識も神様に向かわず、浮遊しがち。しかし、それ程ゆっくりにしなくても、間をとることで、逆に「言葉の消化不良」は解消。間があることで、礼拝者は聞いた言葉、自らが口にした言葉を、意味の塊ごとに、噛みしめながら、次に進めるのでは?それは礼拝者の意識を明確にして、礼拝をいのちあるものに導くとも思うのです。
〈音楽に例えるなら〉
 音楽に例えるなら、ただ、ゆっくりなだけの司会者の話は、「休符のないスローテンポのメロディー」のようなもの。これは、安らぎや心地よさを与えず、だらけさせるか、眠くさせるかでしょう。むしろ、遅めのミディアムテンポで、休符のあるメロディーの方が、メリハリが生まれ、受け止めやすく、反応しやすいもの。礼拝司会も同様だろうと思いました。
 音楽に例えるなら、礼拝司会者は、意味の意切れ目で8分音符、文章の終わりで4分音符を入れるような意識で、話せばいいのではないでしょうか。そうすれば、そんなにゆっくりでなくても、礼拝者が消化不良を起こさず、なおかつ、だらけない礼拝司会奉仕ができるのでは?
  早いと苦情を受けるような礼拝司会については、「もっとゆっくり」よりも「しっかり間をとってかなあ」と考えるに至りました。礼拝の司会をされる皆さんの参考になれば、感謝なことです。
 
 
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