礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「礼拝司会④~20年後の礼拝司会を妄想してみた!」

今日で最終回としましょう。
今回は、一転して、柔らかい内容。
20年後の礼拝の司会を勝手に妄想してみた!
(司会者が登壇)
「そろそろ、礼拝、始めたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
「次は賛美とかですけど、ご起立できたりします?」
「こちら聖餐式のパンになります」
「次、献金ですけど、大丈夫だったりしますか?」
「これで、礼拝は終わりということで、お願いします」
はてさて笑っていいやら、いけないやら・・・
予想でなくて、妄想なので、現実にはならないでしょう。
とは言え、時代のメンタリティーは司会の言葉に反映しがち
司会者の礼拝観も、その言葉に反映されるもの
毎週の司会者の言葉は、会衆全体の礼拝観と礼拝姿勢にも影響
礼拝の重点が、礼拝対象である絶対者への献身、従順、傾聴から
礼拝者という人間側の心情、都合、快適さに移行していくなら残念
なぜなら、それは礼拝の本質喪失を意味するだろうから
礼拝司会における言葉はとても大切
この妄想が、それを考える題材となれば、感謝。
4回にわたるシリーズを通して、司会の言葉だけでなく、
礼拝について一歩深く考えていただければ、感謝