礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「礼拝司会③~献金時、必要最小限か?必要最大限か?」

〈献金時に必要な二つ〉
日本社会は、まだまだ宣教地と言える現状
それゆえ、礼拝時は、新来会者・未信者への配慮は必要
「浄財」という言葉から、見えてくるのは
お金と汚れが結び付きやすい日本の宗教観
そうでなくても、お金はリアルで
宗教は心の問題と考える方には抵抗感も
それ故、礼拝時の献金が違和感や躓きを与える可能性も
ですから、強制や義務ではないことを伝えることになります
そこで、必要になるのは「趣旨説明」と「配慮」
〈必要最小限のケース〉
昨年は日本基督教団(会衆派)の礼拝に出席
そこでは、「献金」「ささげもの」ではなく「奉献」
献金時の案内は簡潔明瞭のショートバージョン
「奉献は神様の恵みへの感謝の応答です。
用意のない方はそのままで、お過ごしください」
これは、必要最小限の言葉
それ故、礼拝の流れを妨げる可能性も最小限
〈必要最大限のケース〉
一方、福音派・聖霊派で一般的なのはロングバージョン
「(献金は会費や入場料ではありません)
献金は、神様の日々の恵みへの感謝です。
また、クリスチャンの献身を示すものです
ご用意のない方、意味の分からない方は
献金袋が来ましても、そのまま次の方にお渡しください」
これは必要最大限の言葉
献金の趣旨の代表が二点示されます
二点目は教会員への献金教育の意図も
「意味が分からない」は親切心からの配慮
一方、疎外感や上から目線との印象を与えるリスクも
ロングバージョンは必要な説明と配慮をほぼ網羅
一方、長すぎて、礼拝の流れを妨げる可能性も
〈どちらよいのか?〉
必要最小限は、礼拝全体を考慮すると望ましいかも
でも、主旨説明も、配慮も不十分なのかも
必要最大限だと、十分な趣旨説明と配慮は伝わる
一方で、礼拝の流れを妨げかねない
もし、そうだとしたら、過剰な説明と配慮
〈多くの教会の現状〉
多くの教会では先輩が用いてきた文言が
検討、改善なしに、継承されているのが現状
献金については、未信者への配慮は大切
同時に、礼拝における大切な応答行為の一つ
献金時には、礼拝者の意識が、神様から離れるように
礼拝の流れが遮断されているように感じることも
〈まとめとしての二つの視点〉
未信者への配慮は、宣教学的視点
礼拝における献金の本質は聖書学的視点
時に相反する両者の視点が
献金案内の言葉を考える際の難しさか?
献金時の司会の言葉、どう思います?
皆さんが集う教会ではどうですか?