礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「礼拝司会②~『礼拝を終わります』ってどうよ?」

〈本日のぼやき〉
礼拝の司会について今日もぼやきます。
お招きをいただき礼拝説教奉仕、
祝祷もさせていただき、後奏。
そこで、司会者が登場して、こう言います。
「これで礼拝を終わります」
心の中に生じるのは、以下のようなツッコミ
「それ言うか?」
「続く言葉はないの?」
「さっきの祝祷どうなるの?」
「礼拝式の終わりは派遣の始まりだろうが」
「それだけを言ったら、派遣意識なくなるでしょ」
「礼拝をささげることで、全部終わりなの?」
「祝祷、後奏の後にふさわしい言葉考えてよ」
われながら、思います。
これは、いちゃもん、被害妄想かもと。
でもやっぱり思うのです。
「『礼拝を終わります』ってどうよ?」って。
〈義務解放宣言との誤解〉
 このいちゃもん、被害妄想には、理由があります。
「これで礼拝を終わります」は誤解を与えがち
「これで宗教上の義務は終了、後はご自由に」と。
これでは、神様を意識しない生活の開始宣言
礼拝は宗教的義務ではないし、
義務感での礼拝を神様は喜ばれないでしょう
礼拝は神の民にとっての恵み、特権、
愛する神様との人格的交わりであり喜び
礼拝は、束縛でも拘束でもない
むしろ、礼拝こそ、神にある自由と解放を実感する場
「宗教的義務解放宣言」との誤解を与えかねないこの言葉
どうかと思います。
〈連続性の分断なのでは〉
また、礼拝は終わりでなく始まり
いわば、開始としての終結
開かれた終わり方がふさわしいはず
ならば、大切なのは終わりと始まりの連続性
教会内から教会外へ
礼拝から証しの生活へ
主の日から、仕える週日へ
いただく恵みから、与える恵みへ
光の補給から、光を輝かせる歩みへ
塩の塊から溶け出す塩へ
大切なのは、終わりと始まりの連続性
「礼拝を終わります」との言葉は、
この連続性を分断してしまうように感じます。
司会者が語るなら、連続性を示し、補強する言葉では
〈祝祷との矛盾かもよ〉
この連続性を具現化しているのが祝祷と後奏
祝祷は、「祝福」と「派遣」の祈り
祈るのは、会衆が祝福の基として派遣されるための祝福
他者の祝福のためにこそ、会衆は祝福をうけるのです
礼拝での恵みを携えて、周囲の方にその恵みを手渡すのです
後奏は、祝祷のいわばフォロー、確認、ダメ押し、
会衆が回れ右をして、行進曲が奏される教会もあるのだとか
日本でも時には、行進曲かファンファーレにしてほしいです
こうした外への方向性と派遣意識を
「礼拝を終わります」は、妨げていないだろうか?
〈じゃあ、どおすんのよ?〉
礼拝は開かれた終わり方がふさわしい
それなら「礼拝をお開きにします」なのか?
礼拝は天の祝宴のリハだからいいかも
いいや、礼拝軽視との誹りは免れない
というわけで、あっけなく却下
これまで見聞きしてきた実例をあげましょう
「ともに礼拝をささげられたことを感謝します」
「それぞれの場へ遣わされてゆきましょう」
「礼拝でいただいた恵みを手渡してゆきましょう」
これらは、「出発としての終結」にふさわしいのでは?
もし、「これで礼拝を終わります」と言うなら、
続いて、派遣を励ます言葉をと願います。
また、礼拝終了後に報告や連絡があるなら、
司会者は終結宣言をせず、報告に移ればよいでしょう。
〈まとめ〉
礼拝終結宣言をしないとすっきりしないものです
「礼拝を終わります」と言いたくなる気持ちもわかります
でも、それが礼拝終結の意味と失わせるならどうよ?
礼拝終結が持つ方向性に反するなら、どうよ?
礼拝からの派遣をくじいて、どうすんの?
「『礼拝を終わります』ってどうよ?」
はてさて、これは礼拝原理主義者のいちゃもん、被害妄想か?
それとも、礼拝尊重者の正しい問題意識なのか?
〈付記〉伝統教派での事例を紹介し忘れておりました。
カトリックや聖公会での一例をご紹介。
祝祷後に
司会者「主を愛し、主に仕えるために、平安の内に行きなさい。」
会衆「キリストの名において」
一同「アーメン」
その後、賛美の中で司祭が退堂、会衆が各々退堂。