礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「礼拝司会①~その『思います』いるのかな~?」

〈『思います』の増加〉
 各地の教会で礼拝をささげながら、近年、感じているのは、礼拝司会者の「思います」の増加。これは、多分、福音派と聖霊派の教会に特徴的な現象かと想像します。
「礼拝を始めたいと思います」
「賛美をしたいと思います」
「メッセージをいただきたいと思います」
〈個人的問題意識〉
これらの「思います」を聞きながら「思います」。
「その『思います』いるの?」
「そこは『思います』じゃないでしょ?」
「『礼拝を始めます』でいいでしょう」
「『賛美しましょう』だと問題あるの?」
『メッセージをいただきます』ではいけないの?」
「その『思います』は、司会者個人の『思います』なの?」
「会衆の代表としての『思います』なの?」
「そもそも、何も考えていない『思います』なの?」
「思います」と聞くと、
「したければ、礼拝始めればー」
「じゃあ、賛美すればー」
など思い浮かぶのは、
クレヨンしんちゃん的リアクション
そもそも自分が思うかどうかじゃないでしょう。
神様が礼拝を願い、その招きに、応答してささげるのでしょー。
〈増加要因は?〉
礼拝司会における「思います」増加の要因は何でしょう?
司会者自身の自信のなさや自己肯定感の低さ?
権威的と思われないため?
断言すると人を傷つけるから?
指示的だと圧を感じる人がいるから?
命令的に感じて、不快に思う人がいるから?
礼拝では優しい表現が好まれると考えるから?
司会者から会衆への心情的配慮?
それとも、誰かに悪く思われない自己保身感情?
〈私見〉
そこで、礼拝原理主義者の私は思います。
司会は、会衆の心を礼拝対象である神様に向けること
大切なのは、明確なリード
大げさに言えば、神と会衆を結ぶ祭司
また、神様から委ねられた大切な奉仕
故に権威を与えられているはず
だから、断言、指示的文言でよいのでは?
「思います」の多用は、礼拝の本質喪失につながるのでは?
会衆の意識の方向性を、礼拝対象である神様から、
礼拝者自身の心情に向けてしまうのでは?
〈迷いと葛藤〉
 礼拝司会における「思います」の使用は今どきメンタリティーの反映のように思えてなりません。本質保持や目的達成より、人が傷つくことの回避を優先すること、多様な応答を許容する寛容を美徳とすることなどは、いかにもそうだと思うのです。
 だとすると、私の抱く違和感は、昭和メンタリティーに由来する間違った違和感なのかもしれません。むしろ「思います」は、会衆が抵抗感なく、主体的に礼拝をささげる助けになっているのかもしれません。そう考えると、迷いと葛藤を覚えます。
これを「礼拝における会衆適応性」として許容すべきか?
それとも「礼拝の本質の喪失要因」として警戒すべきか?
うーん、考えさせられます。
「礼拝司会における『思います』の使用」
それこそ、どう「思います」?