礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「その『続いて』ってどうよ?③ ~方向性、流れ、深まり」

 無駄な言葉を排することは、決して「テンポよく、スピーディーに」という意味ではありません。二胡の調べ流れる太極拳のような「ゆったり礼拝」でもよいのです。一定方向に流れて、深まって行けばいいのです。
 私が問題視しているのは、「ゆったり」はありません。「ダラダラ」です。流れが分断される、時々止まる、礼拝が深まらず、礼拝中何度も意識が神様以外に向かってしまうような司会。そうならぬようにと願っての投稿です。
 時々、「礼拝司会の秘訣は?」と尋ねられることがあります。私は大抵、「礼拝自体に流れと方向性と深まりがあるので、それをお邪魔をしないこと。」という趣旨で答えます。さらに今回、追加するなら「礼拝の中で働かれるご聖霊のお邪魔をしないこと」と「礼拝者側の主体性や喜びのお邪魔をしないこと」でしょうか。
 要は三つともお邪魔をしないことです。礼拝プログラムの順番自体が、流れや方向性や深まりをもっているので、それを邪魔しないことが、まず、第一。具体的には、礼拝の持つ次のような構造自体が、流れ、方向性、深まりをもたらします。いいえ、聖書自身がそうした礼拝の順番や構造の原則を記しています。
 呼びかけ(世から教会へ)
 →啓示(神から民へ)
 →応答(民から神へ)
 →派遣(教会から世へ)
 礼拝は一般的に、こうした構造を持ち、各プログラムの順番自体に方向性があるのです。流れや方向性や深まりをもっているのですから、それを活かせばよいのです。逆に邪魔をしないこと。「続きましてや」「では、ここで」は不要で、かえって、礼拝を停滞、分断させかねません。
 というわけで、まずは「続きまして」や「それでは」などを、言わないだけで、礼拝のクオリティーは向上するでしょう。
 さらに、礼拝が持つ方向性や深まりを積極的に活かしたいという方は、「別のつなぎの言葉」を用いるとよいでしょう。
「それでは、ここで讃美歌・・・」ではなく、
「さあ、共に主を賛美しましょう」
説教後は「続きまして・・・」ではなく
「主からの語り掛けに応答して・・・」でしょう。
 つまり「次に移ります」を意味する言葉ではなく、礼拝という交わりの中で、呼びかけや応答への招きの言葉がよいだろうと思うのです。言い換えるなら、「機能的な言葉」でなく「人格的な言葉」を使用することでしょう。これは、礼拝者の意識を「宗教的義務行為」や「プログラム消化」から「人格的行為」、「愛の交わり」としての礼拝へと導きます。
 礼拝を「機能的なパフォーマンス」と考えているか?「人格的な交わり」と捉えているか?その違いが、司会者の言葉にも、一定、反映しているようにも思えます。そのことは次回、記します。
 今回は具体的な提案もしてみましたが、より豊かな礼拝のための参考になれば、感謝なことです。