礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「知って驚いたミサの語源②~祝祷が持つ派遣性」

〈礼拝自身が持つ方向性〉
 昨日に続いてのシリーズです。礼拝の終了が「派遣」であることは、プロテスタントの礼拝も同様。礼拝には方向性、ベクトルがあります。最後は、「教会から世へ」という外向きの宣教的方向性なのです。以前にも記したように、礼拝の基本構造は以下のようなもの
呼びかけ(世から教会へ)
 →啓示(神から民へ)
 →応答(民から神へ)
 →派遣(教会から世へ)
 具体的には、前奏や招詞は「呼びかけ」で「世から教会へ」というベクトル、祝祷と後奏は「教会から世へ」というベクトルを持ちます。私がご奉仕をさせていただくのは、福音派が中心ですが、ほとんどは「祝祷」と週報に記載。しかし、「派遣性」を知らせたいのでしょう。「祝福と派遣」と書かれていることも。また、祝祷を含めて、礼拝プログラム意味が、別のページに短く記載されていることがあります。
〈祝祷において問われること〉
 そこで質問です。祝祷をされる方は会衆に対しての「何」を願い祈っておられるでしょうか?祝祷を受ける皆様は「何」が祈られ、「何」をいただいているとお考えでしょう」そう。問われるのは、祝祷をする側と受ける側、両者の意識でしょう。
 牧師など祝祷をする側は、「派遣の祈り」、「派遣のための祝福」との意識で祈っているでしょうか?派遣性の有無は問いませんが、礼拝学を学んでいれば、ご自身なりに祝祷の意味は心得ており、祈っておられることでしょう。
 牧師が自身なりの意識を持って祝祷をしているとしても、受ける側の意識が異なっていたら、どうだろうと思うわけです。たとえば「派遣の祝福」との意識を祈っていても、会衆が「自己充足的祝福」をいただくという意識で受け止めているなら、祝祷は本来の意味を成しているのでしょうか?
 「礼拝を終える際に、祝福をいただき、一週間日常を送る」という意識と「礼拝から、祝福を受けて、世へと遣わされていく」との意識は、礼拝者の歩みに雲泥の差をもたらすでしょう。「自分が祝福をいただいて終わる礼拝」と「祝福の基として世に遣わされ、他者に祝福をもたらすための礼拝」という礼拝観の違いは、礼拝者の信仰の成熟に大きな違いを生み出すのではないでしょうか。
〈ポスト・コロナの教会〉
 「礼拝は大切」とは聞きますが、「礼拝教育」と「礼拝者育成」はあまり実践されていない現状を思います。その一方で、「礼拝、聖書、祈り、奉仕、献金の5点セット」に励む「マニュアル順守」が、信仰生活の本質とされてきたように感じています。「礼拝は大切」はスローガン止まりで実質を失っているのかもしれません。
 いわゆる福音派において、昭和の教会は、「伝道と奉仕」で、教勢拡大を実現しました。それは昭和のメンタリティーと合致していたことも一因でしょう。しかし、今や、ポストコロナの時代にあっては、「礼拝と交わり」にシフトチェンジすべきと考えています。
 言い換えるなら「活動主義から共同体性」です。それが令和のメンタリティーと合致していると思うし、教会の成熟にもつながると考えるからです。
 「ミサ」の語源から、そんなことを考えています。