礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「主日礼拝、それってどうよ?⑥~言葉、理性、論理がすべてなの?」

〈相反する二つ要素〉
 今回で一旦最終回。御言葉中心の礼拝となれば、その礼拝は、どうしても「言葉、理性、論理」に大きく傾きます。それに伴い「物質性、身体性、神秘性」は、後退するのは必然。④で「福音派教会における聖餐軽視傾向」に触れましたが、その理由の一つはまさにこのことだと思うのです。
 聖書の「言葉」は、聖霊の助けと共に「理性」で理解され、一定の「論理性」をもって礼拝者に受け止められます。それに対して、聖餐は真逆。パンと杯は、まさに「物質」。これは「物質化された御言葉」。そして、理性で受け止めるのではなく、身体で受け止め恵みを味わい体感する「身体性」が聖餐にはあります。
 さらに、聖餐には「神秘」があると私は考えます。どのような意味において「私の血、私のからだ」なのかについての見解は多様。ただ、私は、論理で割り切れる単なる「記念」や「象徴」がすべてではなく、そこには「神秘」があると考えます。
〈削ぎ落された豊かさ?〉
 以上のように、御言葉礼拝は「言葉、理性、論理」が中心で、聖餐式礼拝には、「物質性、身体性、神秘」があります。聖書の重視、偶像的要素の排除など、様々な経緯や要因があって、後者が福音派の礼拝から、削ぎ落されてきたのでしょう。宗教改革によって、礼拝の豊かさの一部が失われたとの見解も、時々、お聞きします。
 ですから、礼拝の豊かさを願って、これら削ぎ落されてきた後者に「敗者復活」させるような試みをお聞きすることがあります。また、試みには至りませんが、そのような提言に触れることも。
〈五感と身体性〉
 よく見聞きするのは、非言語的要素である「視覚的要素」。教会暦に沿って典礼色を用いることなどは、伝統教会では一般的なようですが、最近は、一部の福音派教会での実践を見聞きするように。説教や礼拝の進行に動画を用いる教会も。聖餐は味覚に訴えるもので、香を焚くなどは臭覚に訴えるものと言えるでしょう
 身体性なら、賛美しつつ踊ること、手をあげて祈ることなどでしょうか。もちろん教会の文化があり、心情的抵抗感はあるでしょう。とは言え、会衆にとって適切な身体性の導入はあり得るだろうと考えています。定番の賛美は、折り返し部分だけ、手話を入れて歌うとか。手を胸にあてて、心を込めて歌うなどです。礼拝者同士の交わりとして、欧米ならハグでしょうが、日本なら、握手。それにも賛否があるので、接触しない笑顔でお辞儀などでしょうか。起立しての賛美などは、当たり前に行われている身体性の導入。
 聴覚以外の感覚と身体性の導入は、礼拝から品位が奪われ、人間的な営みになるような感覚を持つかもしれません。でも、本当にそうでしょうか?むしろ、聖書が記すのは、「多様な感覚に訴える礼拝」「踊り賛美する身体性」でしょう。文字通りの聖書時代の再現ではない現代における具現化は、今日において、礼拝を豊かにするのではないでしょうか。
〈神秘性はどうなの?〉
 神秘性の導入については、聖餐の重視以外には、具体的な試みは思いつきません。むしろ、礼拝者側が「御言葉礼拝の中に、神秘性を意識すること」だと考えています。なぜなら、御言葉は「語られるパン」で神秘性を持つからです。
 御言葉と共に聖霊が働くこと自体が、そもそも神秘です。礼拝の中、御言葉を通じて、神様と人格的交わりができること、キリストと人格的に出会うこと自体は、理性を超えた神秘と言えるでしょう。ですから、礼拝自体を、知的な営みとせず、神秘性を持つ人格的な交わりとの意識を礼拝者が持つことで、礼拝は豊かになると考えています。
〈まとめとお礼〉
 時に「言葉、理性、論理」に大きく傾きがちとの指摘もある福音派の礼拝。もし、礼拝をより豊かに、より深くと願うなら、「物質性、身体性、神秘性」を現代と会衆の文化に適したかたちで、導入することは一つの選択肢でしょう。「言葉、理性、論理がすべてなの?」との疑問から、そんなことを考えました。
 長いシリーズへのお付き合いありがとうございます。礼拝を再考する際の一助になれば、望外の感謝です。