礼拝、礼拝司会

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「主日礼拝、それってどうよ?④~なくても平気?聖餐式」

〈コロナ期に聞いた信徒の本音?〉
 しばらく休止していたこのシリーズ、再開です。新型コロナが猛威を振るった頃、多くの教会では、3年間程度、聖餐式が執行されないという異常事態に。奉仕先で親しい男性信徒の方と、その件でお話しした際に何人かからお聞きした言葉。
「別に何の問題にもなっていません」
「なくなっても、何も変わりません」
「これから、ずっとなくても全く平気」
 教会の最優先使命を「礼拝と聖礼典の執行」だと考える私は、一瞬むかついたのですが、すぐに思い直して、感謝しました。「ああ私を信頼して、本音を伝えてくれたのだ」と。そして、むしろ、怒りが向けられる本来の矛先は、信徒が聖餐式を「その程度に思うようにしてきた側」だと思ったです。
〈福音派教会の実態は?〉
 信徒時代の自分自身を振り返っても、「イエス様の血と肉を覚えて、感謝するための儀式」程度の受けとめでした。主の血と肉を覚えて、恵みを身体性をもって実感し、聖餐ならではの深い感動を覚えることはありませんでした。また、主と再び飲む日を覚えることを覚え、その日まで、地上の信仰の証しする歩みへ向かう動機付けにもなりませんでした。小さく切られていたこともあり、教会が一つであることを確認していたわけでもありません。
 つまり、式文が読まれるのを聞きながら、意味も目的も、理解せず、自分のものにはなっていませんでした。聖餐の恵みの深さと現実性に感動し、心から必須のものと思えるようになったのは、恥ずかしながら、自らが司式する立場になってから、何年も後のことでした。
 私のように、長年、教会生活を送っていても、聖書から、聖餐の意味や目的の全体が、語られるのを聞いたことのない方は少なくないかと想像します。そうであれば、信徒が「聖餐式がなくても平気」なのは、それまでずっと「そう思われるような聖餐式をしてきたこと」を意味するのではないでしょうか?少なくない信徒方が持つ「聖餐不要感」は、執行する教会の側が、植え付けてきたのはないかと危惧しています。
〈御言葉と聖餐〉
 数年前、オンライン聖餐の是非が論じられた時、少しうれしかったことを思い出します。「聖餐における身体性」など真剣に聖餐の本質を考える機運が起こったからです。しかし、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」になっているようです。
 「御言葉中心の礼拝」は「聖餐式を中心としない」ことを意味するのであって、「聖餐軽視」を意味しません。以前にも記しましたが、御言葉と聖餐は相反することではありません。聖餐式は「食べる御言葉」として、御言葉は「語られるパン」として位置づけされると考えているからです。
 ですから、間違った「御言葉中心」は、聖餐式を「聖書が命ずるから実行する義務的儀式」に追いやりません。そのことが、信徒に「聖餐式不要感」を抱かせてしまうのでしょう。
 福音派における聖餐の軽視が時に、指摘されます。その根底には、「御言葉と聖餐」を対立的に考える発想があるのかもしれません。聖餐の恵みが正しく理解され、体験されることは、礼拝の豊かさにつながり、体感的にそれを味わることにつながると思っているのですが、どうなんでしょうね?