礼拝、礼拝司会
礼拝、礼拝司会
- 「主日礼拝、それってどうよ?① ~説教までは前座なの?」
- 「主日礼拝、それってどうよ?② ~礼拝は音楽付き聖書講演会?」
- 「主日礼拝、それってどうよ?③~礼拝中も礼拝より聖書が大切?」
- 「主日礼拝、それってどうよ?④~なくても平気?聖餐式」
- 「主日礼拝、それってどうよ?⑤~役立つ教会員で残念礼拝者」
- 「主日礼拝、それってどうよ?⑥~言葉、理性、論理がすべてなの?」
- 「礼拝行為を示す言語表現を考えてみた!」
- 「知って驚いたミサの語源①~閉会の言葉だったの?」
- 「知って驚いたミサの語源②~祝祷が持つ派遣性」
- 「知って驚いたミサの語源③~いつから宣教性を失ったのだろう」
- 「知って驚いたミサの語源④~宣教性と派遣意識の回復」
- 「礼拝司会①~その『思います』いるのかな~?」
- 「礼拝司会②~『礼拝を終わります』ってどうよ?」
- 「礼拝司会③~献金時、必要最小限か?必要最大限か?」
- 「礼拝司会④~20年後の礼拝司会を妄想してみた!」
- 「歌を賛美し、祈りを祈り、信仰告白を唱え、礼拝を守る?」
- 「その『続いて』ってどうよ?①~中高生キャンプの現場から」
- 「その『続いて』ってどうよ?②~主日礼拝の司会はどうか?」
- 「その『続いて』ってどうよ?③ ~方向性、流れ、深まり」
- 「その『続いて』ってどうよ?④~そもそも礼拝司会の役割は?」
- 「礼拝司会者の話すスピードについて考えてみた」
「主日礼拝、それってどうよ?③~礼拝中も礼拝より聖書が大切?」
〈聖書にこだわる礼拝者の意識〉
礼拝者の中には、聖書信仰に気合が入り過ぎなのか、聖書信仰を誤解しているのか?礼拝の中においても、礼拝より聖書の言葉が大切になっている方もちらほら。そうした方にとって、大切なのは、その日の聖書箇所とそこからの説教のみです。そこにばかり期待して、それが礼拝出席の大きなモチベーション。
前日までに何度も説教箇所は読み返しており、どんな説教か期待をしています。それ自体は賞賛されることでしょうが、礼拝前から、頭の中を支配しているのは、その日の聖書箇所とそこからの説教というのはどうかと思うわけです。言うまでもなく礼拝対象は、神様ご自身なのですが、礼拝対象より聖書が優先しているかのよう。
礼拝のそれ以外の賛美、祈祷、信仰告白、献金などについては、その「行為」はするものの、「心を込めてしているかどうか?」「神の愛と恵みへの応答行為としてささげているのか?」が怪しかったりします。礼拝対象である神様という人格が関心の外のようにお見受けする方も。時に、御言葉に強いこだわりを持つ礼拝者の中に、説教以外の場面で、「義務感」「惰性」「他律的姿勢」を見るように感じます。
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〈デートにたとえるなら〉
これをデートにたとえるなら、食事が提供されるまでずっと、相手の前で最近、もらった「ラブレター」を読んで、相手の話もろくに聞いていないようなもの。これは失礼でしょう。「ラブレターに熱中して、ラブレターの送り主を無視してどうすんの?」ということ。
つまり、礼拝対象である神様自身に気持ちはなく、そのラブレターである聖書に気持ちがいっているのです。そのために、説教前まで、神様の愛に「気のない返事」をしているわけです。これって、礼拝中に、神様を片思いさせていることですよね。
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〈聖書信仰あるあるかも?〉
「神様より聖書を愛し、礼拝中も礼拝よりも聖書が大切」これは、いわゆる「聖書信仰者」が陥りがちな落とし穴かも。聖書信仰の取り違えによる本末転倒。神様が最も願う礼拝を乏しくし、神様を悲しませてしまうのではないでしょうか?
それは、神様とその民との愛に基づく人格的交わりである礼拝を「音楽付き聖書講演会」に、変質させているように思うのです。このことは、時に指摘される福音派の礼拝における説教偏重が、最も残念な形であらわされた事例だと、個人的には思っています。
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「それって聖書オタクの礼拝喪失でしょ!」
「聖書の重視が礼拝軽視になってどうすんの?」
「聖書が大切なら、礼拝が最重要でしょ!」
私はそう思うのです。「聖書信仰あるある」あるいは「聖書オタクあるある」の一つとして、一度考えてみてはどうでしょう?