礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「主日礼拝、それってどうよ?② ~礼拝は音楽付き聖書講演会?」

〈礼拝についての辛辣な言葉〉
 このシリーズを始めようと考えた時、思い出した言葉があります。それは、私の尊敬する福音派の礼拝学教師の発言。その先生は「福音派の礼拝は、音楽付き聖書講演会?」とその乏しさを指摘していたことを思い出します。とても辛辣な自己批判。
 「聖書講演会」との表現には、説教が聖書を通じての「神からその民への語り掛け」になっておらず、「聖書の説明」や「思想伝達作業」、「聖書からのよいお話し」になってしまっているとの批判が込められているように思います。そして「音楽付き」との言葉には、礼拝においては、賛美等説教以外は、説教に対して「付属的かつ下位に位置づけられていること」を指摘しているのでしょう。
 実際に、「礼拝開始に遅れても、説教前に間に合えばOK」という礼拝者もちらほら。そうした礼拝姿勢が、戒められることなく、放置され、新来会者や将来ある子どもたちに信仰の躓きを与えているケースも。礼拝自体が、神と民の交わりとしての全体を失っている場合もあれば、礼拝者の意識が、「説教からが意味ある時間」となっているケースも。
〈デートと身体にたとえるなら?〉
 愛し合う男女のデートなら、食事が提供されてからの会話だけが大切なのではありません。食事の前後を含めた全体が愛の交わりであり、デートのはず。人間の身体で言えば、脳や心臓は、中心的で不可欠ですが、それ以外の多くの器官があって、全体が身体です。
 カトリックの礼拝は聖餐中心で、プロテスタントは御言葉中心と言われます。しかし、中心以外がないのなら、それは、主日礼拝として成立しないでしょう。それは、デートでなく食事会、脳か心臓など人体の一部。中心とされるもの以外が、軽視されるなら、礼拝全体が乏しいものとなるでしょう。
〈礼拝の全体性〉
 招きの言葉と前奏で既に愛し合う神とその民とのデートは始まっているのです。心臓部だけではなく、そこから、祝祷、派遣、後奏に至る全体が、礼拝という身体の全身なのです。礼拝は人格的で全体性を持つ愛の交わりであるはず。
 食事提供時の会話だけをデートとするような礼拝観、脳と心臓だけを人間の身体とするような礼拝意識が、自らや教会の中にあるならば、一度、考えてみてはどうでしょう?「御言葉中心の礼拝」が「何ではないか?」「何だと誤解しているか?」を。