礼拝、礼拝司会

礼拝、礼拝司会

「主日礼拝、それってどうよ?① ~説教までは前座なの?」

〈前座とは?〉
 教会の第一の使命は「礼拝と聖礼典の執行」だと思っている保守本道の私。そして、「自称礼拝原理主義者」でもあります。その一方で、日本が「宣教地」であることを肝に銘じており、主日礼拝の中に伝道的要素の必要性を覚えています。そんな私が普段から「主日礼拝、それってどうよ?」と感じていることを、記すがのこのシリーズ。
 「前座」と言う言葉があります。元来は、演芸の世界の言葉。落語などでは、真打の前を務めることや務める噺家を意味します。転じて、スポーツイベントやコンサートでも用いられている言葉。最近は「前座」でなく、「オープニングアクト」と言うらしいです。ビートルズ初来日の際の前座が、ドリフターズであったことは、有名なお話し。
〈説教までは前座なの?〉
 「礼拝、それってどうよ?」と思うことの一つは、説教前のプログラムを「前座扱い」していませんか?ということ。つまり、礼拝開始からの15分から20分程度は、説教というメインアクトの前のオープニングアクト扱い。
 あたかも説教者の登壇が「真打登場」のようになっていないでしょうか?礼拝者は、それまでのプログラムが「前座」扱いして、「お付き合い気分でこなして」いないでしょうか?祈り、賛美、使徒信条、主の祈りなどを、「心を込めてささげて」いるでしょうか?それとも、説教を聞く前の「準備体操」のような気分で、歌い、暗唱しているでしょうか?
 説教者が真打なら、まさに、司会者は前座。「昭和の歌謡ショーの前説か?」と言いたくもなります。むしろ、礼拝という神とその民の愛の交わりにおいては、司会者が全体を担当しており、説教者はその一部を担っているに過ぎないのではないのか?
〈御言葉中心の礼拝とは何でないか?〉
 「御言葉中心の礼拝」であることは、「説教までを前座扱い」することを意味しません。「御言葉中心の礼拝」は礼拝における説教以外の部分を「説教より下位の付属品」とすることではありません。
「御言葉中心の礼拝」が「何ではないか?」「何だと誤解しているか?」は、礼拝において、特に礼拝者側の意識として極めて大切なことだと思っています。明日はそのことについて、記します。